■オーキンのフェミニズム

正義・ジェンダー・家族

正義・ジェンダー・家族

スーザン・M・オーキン『正義・ジェンダー・家族』山根純佳・内藤準・久保田裕之訳、岩波書店

山根純佳様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 オーキンの論法は、熟考に値します。コミュニタリアニズム批判、リバタリアニズム批判、そしてロールズ批判。いずれも、きわめて論理的に逃れがたい詰めの方法がとられています。オーキンはフェミニズムの思想を、これらの規範理論に対抗する一つの論理的な枠組みとして練り上げました。その思想的な努力は、高く評価するに値します。原書は1989年に刊行されましたが、いま読んでも、鮮やかです。
 ロールズの問題点は、家族のなかにおける正義がいかにして調達されるのかについて、理論的に説明していないことです。オーキンのように、賃労働と不払い労働の問題を社会的に解決するのでなければ、家族における正義は、解決されえない。そのように考えることには十分な理由があるでしょう。
 ロールズ的な「無知のヴェール」のもとでは、私たちは、女として生まれるかもしれない、男として生まれるかもしれない、という可能性を残したまま、社会に基本構造に関する政治的判断をするように迫られます。
 でも、無知のヴェールのもとで、私は「フェミニスト」であるかもしれない、あるいは「家父長的な権威主義者」かもしれない、「その権威主義に従順な心性をもった人」であるかもしれない、などと考える必要はないのでしょう。
 というのも、権威主義者と反権威主義者が、契約の下で合意して社会生活を営むためには、基本的には、権威を否定する、あるいは権威の要求を正義によって制約する、ということが求められるからです。契約というのは、妥協と違って、どちらか一方が望まない内容は、契約できないことになります。
 ただ、本当にそうなのでしょうか。フェミニストと反フェミニストが、契約の下で合意して社会生活を営むためには、反フェミニストの要求を、一方的に、正義によって制約することが望ましい、となるのでしょうか。フェミニストの要求も、別の観点から制約されるのではないでしょうか。正義の内実をめぐって、フェミニストと反フェミニストは、何を契約することができるのか。それが問題ですね。とくに不払い家事労働に対応するための制度が問題になります。この問題に対するオーキンの透徹した思考から、私は多くを学びました。