■統治の理想はいずれもおぞましい



大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?』筑摩書房

大屋雄裕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 もともとリベラリズムは、人々が本当に「幸福」になるかどうかは気にせず、ただ自由になることを目標にして社会の統治方法を考える思想です。
これに対して、統治される人々には分からなくても、人々ができるだけ幸福になるように統治者たちが制度を設計し、政策を運営していくという社会を考えることができます。そのような社会は「幸福な社会」であり、いわば総督府をもつ「統治功利主義」の社会といえるでしょう。個人が自由に振る舞うとしても、かれらが意識しないレベルで、いろいろな政策や制度をデザインしておく。その結果として、社会の「幸福」が最大になるように制度を設計するという政策指針は、一つの理想的な規範であるかもしれません。
 これに対して第三に、個人の振る舞いには「監視」を通じて一定の制約をかけるべきだ、という考え方があります。「監視」によって、人びとを悪から遠ざけ、また人々のあいだで信頼関係が生じるようにする。そのような手法は、「監視されているから悪いことをしないようにしよう、むしろ信頼関係を築こう」という具合に、人々の意識を制御・陶冶します。またこの場合の「監視」とは、これまで内面化されていたパノプティコンをいわば外在化したものだとみることができます。このような統治手法を社会全体に拡張した社会は、「監視制御による功利主義社会」と言えます。
 以上の三つをつぎのように整理してみましょう。

 (1) 人々が功利主義的な意味で「幸福」になることを、統治者は気にせず、ただ「自由」のみを統治の理念とする自由社会。リベラリズム
 (2) 人々が自由に行為すると、結果として社会全体の幸福の総量が増えるように統治するような社会。統治功利主義
 (3) 人々はいたるところで監視されており、その監視の視線を気にして、自由に振る舞うことを抑え、むしろ信頼関係を築くような社会。ハイパー・パノプティコン

 以上の三つのうち、私たちは、どの社会を好むでしょうか。著者は(3)を推していますが、しかし結論部分では留保しています。フランスからタヒチに移住したゴーギャンの苦悩に言及され、著者の規範的見解は、両義的なものだということがわかります。19世紀型のパノプティコンを内面化して主体化を遂げた個々人からなる社会と、外在的でどこまでも拡張されたパノプティコンの監視に包囲された社会。どちらもおぞましい、ということでしょうか。
 かつてフーコーは規律訓練権力を批判して、近代社会における主体化の理想を問いただしましたが、フーコーは他方で、「生権力」を批判して福祉国家の形成そのものに疑問を呈し、また、自己企業化の態度を批判して、新自由主義にも疑問を呈しました。すると結局、フーコー的な理想は福祉国家でも新自由主義でもなく、云々、となるわけですが、それが何なのか、が問題ですね。
 自分で自分を統治する自己統治の理想も、他人に自分を統治してもらうということも、いずれもおぞましいものに見えるのは、そもそも統治のミクロの権力作用というものが、人間の究極の理想を実現することには通じていないからではないでしょうか。私たちは、統治のミクロ権力を離れないと、人間的な理想に到達することができない。
 他方で、人間というのは、自分の快楽や幸福を最大化する選択肢というものが、何であるのかを判断できない弱い存在であるとして、それでも人間は、統治者の側に立って、社会全体の快楽や幸福の総量を最大化する方法については、仮説的にであれ、合理的・普遍的に考えつくというのも、面白い人間的事実です。この事実が、統治功利主義を支える一つの基礎であると同時に、また他方では、人が自分よりも他者をケアすることに長けていることを示しているのかもしれません。人は自分よりも他人をケアすることに長けている。この事実から出発する議論は、その反対の議論(人はなによりも自分をケアする「自己保存」の原則をもつという議論)との比較で、統治理論上の興味深い特徴を示すかもしれません。