■欲動増幅装置としての資本主義

余剰の政治経済学 (香川大学経済研究叢書)

余剰の政治経済学 (香川大学経済研究叢書)

沖公祐『余剰の政治経済学』日本経済評論社

沖公祐様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 本書が示すように、ロックやヒュームは、人間本来の欲望というものが「つつましいもの」であって、それだけでは近代的な市場経済はけっして駆動されない、と考えました。市場経済をドライブするためには、貨幣を通じて、奢侈と欲望をかき立てる必要があります。より多くの「余剰」を求める必要があります。
 ところが、アダム・スミスの場合は、あえてそのようには考えませんでした。もし労働者たちが、「近代的な中産階級」として育つならば、労働者たちの本来的な必要物は、むしろ増大するでしょう。労働者たちは、「結婚と増殖」を刺激されて、人口を増やすようになるでしょう。そのような仕方で「国富」が形成されていく、ならば、私たちは必ずしも、「奢侈」と「欲望」に期待する必要はない、というわけですね。
 スミスの経済学は、「奢侈交換論」から「必要交換論」への転換があります。では、マルクスの場合はどうでしょう。本書の読み方は、マルクスは『資本論』において、「単純交換論」というものを、純粋な考察のための「本流」「正常な進行」としました。しかしその結果として、使用価値の獲得ではなく、価値の増殖を目的とするような資本の運動が、非本来的なものとされることになります。その点に、本書は批判的なまなざしを向けています。
 「資本主義」というのは、スミスやマルクスが描いた像よりも、むしろロックやヒュームが描いた像、すなわち「奢侈交換論」によって、本質的に理解すべきではないか。それが本書の問題提起ですね。資本主義は、望ましくない。なぜならそれは、たえず自分自身の「欲動」をかきたてられるようなシステムだから、というわけです。
 これに対して「社会主義」は、人間の欲望を、集権的に制御するための「計画経済」体制を展望しました。けれどもそれはうまくいかないだけでなく、望ましくもない。とすれば、人間は自分で自分の欲望を制御する道徳的な主体として、道徳論の観点から想定される。そしてそのような点から、資本主義を道徳的に批判することになるでしょう。
 しかし別の観点からすれば、資本主義システムから自由になるためには、欲望をかきたてられるようなシステムを総体として乗り越えるのではなく、労働者がそれぞれ、資本に従属しない自由な領域を「熟練労働」という形で形成していくことが望ましい、とも考えられます。たしかに「欲望」の増幅は、資本主義システムへの隷属を意味するかもしれません。けれども、「欲望」ではなく「能力」の増幅は、同システムへの抵抗になりうるかもしれません。
 ドゥルーズのように、欲望の増幅の徹底によって、資本主義の要請を乗り越える存在(可能態)になる、という方向性もあると思います。けれども別の方向は、潜在能力(ケイパビリティ・ポテンシャリティ)の徹底的な増幅によって乗り越えるという方向もあります。そのようなことを考えてみました。最終章はとても啓発的です。