■カフカにとっての二重の不条理

図説ユーラシアと日本の国境

図説ユーラシアと日本の国境

岩下明裕・木山克彦編『図説 ユーラシアと日本の国境 ポーダー・ミュージアム北海道大学出版会

岩下明裕様、木山克彦様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 フランツ・カフカ(1883-1924)は、ハプスブルク帝国の末期に、プラハで暮らしていました。
 当時の不条理とは、ドイツ語とチェコ語の二つの言語が話されていたプラハで、しだいにナショナリズムの運動が高まって、プラハ全体が、チェコ語中心の都市へと急速に変容していったということです。
 ドイツ人とチェコ人の民族紛争が増えます。そうした状況で、ユダヤ人たちは、どちらの言語を話すべきか、選択を迫られました。
 1890年において、プラハではユダヤ人の73.8%がドイツ語を話していましたが、10年後の1990年には、45.%にまで減少してしまいます。
 ユダヤ人であったカフカは、ドイツ語とチェコ語を話すことができました。
 でも、もっぱらドイツ語で小説を書きました。ところがしだいに「反ユダヤ主義」が高まり、ドイツ系ユダヤ人としてのカフカは、二重の排斥に苦しめられたのですね。