■熟議民主主義の本質は保守主義?

山田陽「熟議民主主義と「公共圏」『相関社会科学』第19号、2010年3月

山田陽様、ご恵存賜りありがとうございました。

・熟議民主主義の理想として、中心的な空間にフォーラムを据えるのではなく、多元的で、脱中心的な、アソシエーションに媒介されるような、そんな多元分節的な社会のほうが、各人はうもれずに、自分の社会的な影響力を確実なものとすることができるだろう。そうでなければ、各人の影響力は、一定のパタンへと鋳型をはめられ、それ以外の解釈は、影響力がないものとして処理されてしまう。国家に対抗するための、批判的市民的なコミューンのネットワークが、多元的に構築されている状態が、新しい熟議民主主義の理想となる。

・ところが、そのような影響力の観点から考えると、熟議と社会運動の戦略が、互いに拮抗する。「ミニ・パブリック」という、ランダム・サンプリングに基づいた市民参加型の熟議は、ゲリラ的に市民の声を政治に届ける手段となりうるが、それは社会運動が求める要求と比べて、どこまで正当な要求なのか。そもそも社会運動がなければ、あるテーマは社会問題化されず、ミニ・パブリックの議題とならない、という問題もあるのだが。

・熟議民主主義の問題は、時間軸を考慮に入れないで、「熟す」ということがいったい、どんな基準なのかを、明らかにしないことだ。自律したコミュニケーション、自発的なアソシエーション、批判的・反省的な討議、といった基準は、議論が「熟す」基準にはならない。時間軸の問題を、制度的に捉える視点がないのだ。

・「熟成型民主主義」というアイディアについては、拙稿を用意している。井上達夫編の立法学の本に所収予定。

・熟議型民主主義は、熟議への「いざない」という、最初の一歩をオルグすることに、制度的・実践的な関心を注いでいる。熟すことよりも、コミュニケーションによって自分の考えが変容する可能性や、意見を表明できる場を確保すること、あるいは、人びとのまだ熟していない意見や解釈を、意思決定過程のなかに登録していく、そういう「参加と承認の意義」を与えること。そうしたプロセスに関心を注いでいる。だが、これはつまり、熟議とは何か、という問題よりも、「市民社会とは何か」という問題を重視していることの現れであろう。いったい熟議とは何か、を真剣に考えれば、それは保守的な理想にいたるのではないか。議論は、歴史や時間のなかで熟成していくのであり、そのような場合に、はじめて「熟した」と言えるのであって、人びとが一時点において理性を尽くして議論しても、議論は熟さない。この本質的な困難を考えると、おそらく、既成の市民社会論の理想は熟議民主主義論において、掘り崩されていくだろう。そういう危険を、熟議民主主義論は回避していないだろうか。