■自意識よりも、観念論との対決を

「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想

「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想

白井聡『「物質」の蜂起をめざして』作品社、2010年

白井聡様、ご恵存賜りありがとうございました。

レーニンは、意識性か、自然発生性か、という二者択一の問題で「意識性」を選んだのではなく、自然発生性もじつは一つの「形式」であって、この物象化された構造(形式)を、全面的に転覆するという革命の位相に、真の「自由」があると考えた。レーニンが生きていた当時、現実に起きていた革命の過程は、意識性ではなく、自然発生的な爆発であった。しかしレーニンは、そのような自然発生的な爆発に身をゆだねるのではなく、真の革命実践というものがある、と考えた。それはつまり、観念論に対する「全面的対決」の姿勢によって獲得されるという。(244-245)これはつまり、物象化された社会構造を転覆するために、ブルジョア階級と全面的に対決するという活動それ事態が、その実践において、実質的な「自由」であり、力を蜂起させるものであるということではないか。力を蜂起させるためには、自分たちが何であるのかについて、イマージュを通じた自己限定(アイデンティティの獲得)をしてはならない。マルチチュードとか、そういうイメージは必要ない。余計である。むしろ自分が何であるかを問わず、徹底的な対決の叫びをつうじて、未知の力を自分のなかから蜂起させる。それが自由というものではないか。などと考えた。

・結論部分では、米原万里の長文が引用され、この引用をもって本書の中核部分が代弁されている。あらゆるモノが貨幣計算されて評価される「商品社会」に対して、売れるか売れないかに関係なく、ものそれ自体の価値がある、あるいは価値とは無関係に、ただそこに勝手に存在する。そういう世界の魅力。いわば大学のサークル棟のような魅力かな。金はない。金とは無関係に活動している、勝手にやりたいことをみんながそれぞれやっている。みんな無愛想である。そういう世界が魅力的。中国社会も、市場経済化される前は十分に無愛想だったけれども。

・本書は、レーニンの社会科学的な価値は問わない、としている。(326)