■中世の人びとにとって自由とは

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社メチエ、2010年

・東島誠様、ご恵存賜りありがとうございました。

・歴史のなかで、可能態が隆起する点に焦点を当てる、そういう関心から書かれているのですね。問題設定そのものに、共感します。

・自由という中世語は、「勝手し放題」という意味。「自由の至りなり」とは「誠にケシカラン」という意味。52頁

後醍醐天皇のブレーンの一人、智暁(ちきょう)。彼は1324年に「無礼講」の酒池肉林を差配した。身分の差なく公会飲食するために、17-18歳くらいの若くて美しい女性に裸同然で酌をさせたという。こうしたいわば乱交パーティーは、しかし、正統に対比される異端の行いではなく、正統だがアブノーマルなものであるといえるだろう。それは、可能態の噴出であり、マルクスのいう共産主義の第一段階とも符合する。男女共有の思想である。

・あらゆる規範が無に帰するような事態が、規範の中枢で起こり、そしてその侵犯が、これまで抑圧されていたあらゆる可能態を現実のものとする。異類異形の世界によって「一揆」のフェーズを実現する。そのエネルギーによって、既存の政権を転覆する体勢になる。これは「可能と多元」の一つのモチーフになるだろう。