■アイロニーの機能とは

移動する理論―ルカーチの思想

移動する理論―ルカーチの思想

西角純志『移動する理論――ルカーチの思想』御茶の水書房

西角純志様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 ルカーチの美学がもつ意義について、勉強させていただきました。世紀末のモデルネという問題設定で、当時の状況とルカーチの問題意識が、鮮やかに蘇ります。このルカーチの問題設定は、私にとっても、他人事ではない、人生の本質的な関心をかきたてます。

 「芸術のための芸術」というのは、例えば印象主義に特徴的な姿勢ですが、ルカーチによると、そうした再帰的なテーマ化は、芸術を麻痺させる審美主義、あるいは芸術至上主義であって、よろしくないというのですね。審美主義者は、現実の生から逸脱してしまう。仕事のために、内的な魂を投影することしかできなくなってしまう。それでは現実の文化は豊かにならないのであって、いわゆるブルジョワジーは、そのような審美主義に陥っている点がよくない。「生の全体性」に到達するには、審美主義という、純粋化の方向で関心を徹底するのではなく、もっと「生」が豊かになるための「美」の方向性が模索されるべきだ、ということでしょう。

 アイロニーというものが、主観性の自己止揚にとって、最高度の自由を与えるという指摘も、示唆的です。慣習に従うだけの世界は、空虚な精神を生み出してしまう。これに対して、世界とアイロニカルに向き合う批判精神が、主観の魂を問題化することができる。けれども、慣習的世界を問題化した「主観」は、いったい、自身が何物であるのか、「故郷喪失性」の罠に陥ってしまう。慣習の外に、自己の本質的な魂を位置づけるような文脈は、なかなか見つからないわけですね。

 空虚な自我に帰還するアイロニーの実践と、これまた同じくらい空虚な自我に陥る慣習の実践とのあいだに、私たちは、対立関係を認めることができます。アイロニーが、たんなるアイロニーに終わるのではなく、何らかのロマン主義的・全体的な、反資本主義体制の構想へと至るとき、それは真に、魂を高次化させることができるのでしょう。そのような企てとして、社会主義というものが、美学的精神論として意味をもつ理路があるのでしょう。このアイロニー的主体化とその克服としてのロマン主義こそ、19世紀から20世紀にかけての、社会主義の運動を支えていたものではないか、と思いました。いろいろと触発されました。