■社会的投資国家はいかにして正当化可能か

盛山和夫『経済成長は不可能なのか』中公新書

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 盛山先生によれば、長期不況問題に関する経済の専門家たちの議論には、十分に納得のいくものが少なく、まさに、専門家レベルでの議論の混迷こそが、現実の政治レベルにおける経済政策や財政での失敗をもたらしている、という。
 そこで社会学者の出番というわけですが、問題となっているのは、円高、デフレ、少子化社会保障費と増税のパッケージ、等々です。これらの問題に対して、最も経済成長率が高くなる仕方で、政策を考えることが問われています。
 むろんそのようなアプローチは、これまで、政府的な立場(官庁エコノミスト的な立場)によって検討されてきました。ところが政府的な立場を擁護する議論が、いま混迷を続けている。ならば社会学者こそが、この問題に答えるべきだというわけでしょう。そのような発想は、例えば1990年代のイギリスで、ギデンズが「第三の道」を唱え、まともな経済政策の道筋を示したことと類比されます。
 本書で最も重要な部分は、「政府は未来に向けて投資すべきである」という規範的な議論だと思いました。このテーマは、例えば、従来のリベラリズムコミュニタリアニズムといった思想論争で抜け落ちていた論点であり、現代の経済思想は、これを受けとめて、まともに議論しなければならないでしょう。
 低成長時代あるいはマイナス成長の時代に、人々は経済の果実を、政治的に奪い合うようになります。そのような状況のなかで、「社会的投資国家」という理想は、いかにして正当化されるのでしょうか。成長論的な思想の枠組みをもたない議論において、これを正当化するためには、世代間の正義という理念に訴えることになるでしょう。しかし十分な社会的投資の理念は、たんなる世代間正義の要求を超えています。そのような要求は、「共同体は、世代を超えていっそう繁栄すべきである」というコミュニタリアン的な発想を必要としているのかもしれません。ではこのような規範理念は、いかにしてリベラリズムの側から正当化されるのでしょう。
 こうした関心を抱きました。いずれにせよ、本書の政策論はきわめて現実的で具体的であり、そのような方向に盛山社会学が向かったことは、一つの冒険であり、新しい可能性を示していると思いました。