■本源的無知論は何を示唆するか

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

なぜ女性はケア労働をするのか―性別分業の再生産を超えて

山根純佳『なぜ女性はケア労働をするのか』勁草書房

 山根先生、先日は研究会でのご報告ありがとうございました。
 本書の重要と思われる論点について考えます。
 ビーチィによれば、雇用主は、男性を雇用する際には、その男性が「家族(をやしなうための)賃金」を稼ぐ必要であると考える一方、女性を雇う際には、パートタイム雇用でよいとみなし、また熟練労働とはみなさない傾向にあるという。そのような雇用慣行の視点からみると、公共部門におけるケアワークは、女性にふさわしい職であるという「ジェンダー構築」がなされてしまう。公共部門における家事労働や介護は、家庭での女性の無償労働に似ているという理由で、ケアワークの理想像が構築されてしまうわけである。このような言説の構築は、家庭における性別分業によっても、構築されている。
 この点でよく参照されるのは、ギリガンの議論である。コールバーク批判にもとづくギリガンの「ケアの倫理」に対する評価は、しかし二分されている。(129) ギリガンの議論の、なにが問題だったのか。それは本書が指摘するように、(1)女性の多様性と、(2)一人の女性の内なる声の多様性の、二つの面を考慮していない点であろう。
 「女性」と一言で言っても、多様であり、女性にふさわしいケアの倫理という単一かつ本質的な倫理があるわけではない。また、一人の女性の中でも、内なる声は複数あるのであって、単一の声(良心)を倫理的指針として採用できるわけではない。こうした二つの面を考慮しなければ、安易なジェンダー構築を許してしまうことになるだろう。
 加えて、社会的なドミナントな言説となる「女性の声」は、言説の背景にある社会構造の観点からも、説明する必要がある。例えば、白人の中産階級女性にとって、ドミナントな道徳的発達のパタンは、それ自体として理想的な規範なのかといえば、そうともいえない。事実としての実践から、規範を導くことはできない。社会の構造によって構築される倫理の問題に対しては、批判的な解釈実践が必要であって、問題の本質を、たんに「道徳的」なものと捉えたり、あるいは、「人間的」なものだとか、「本来的な能力」だとかいった仕方で捉えると、誤ってしまうことになる。
 ある種の保守派は、こうした構築主義や批判的実践の考え方に対して、次のように応じるかもしれない。人は(この場合、女性は)、本来、何を欲しているのか、本来どんな能力をもっているのか、ということについて、なるほど私たちは、本来的なことは何も言えないということを認めよう。私たちは、この問題に対して、本源的に無知であるといえる。では、「無知」であるとは、いかなる規範的含意をもっているのか。それはすなわち、私たちは無知であるがゆえに、これまで人類が実践してきた伝統に依拠することに、一定の進化的合理性がある、ということだろう。
 「無知ゆえに伝統に従うべし」という議論は、なるほど一定の合理性をもっている。保守派は、このような議論を好むだろう。しかし、性差にもとづく分業は、伝統ではない。それは近代社会とともに形成された意識的な実践であって、自然なものだとか本来的なものだとはいえない。本源的な無知論は、伝統に従うことの合理性を主張する。しかしその伝統とは、私たちに何を命じているものなのか。それが曖昧な点に、問題の所在があるのではないだろうか。