■弁論術とディベートの違い
- 作者: 今井次郎,多和田葉子,伊東豊雄,小岩勉,小野和子,瀬尾夏美,ブブ・ド・ラ・マドレーヌ,山田創平,岡田有美子,山本作兵衛,五野井郁夫,西村高宏,大橋仁,佐藤泰,甲斐賢治,清水チナツ,小玉敦子,姫野希美
- 出版社/メーカー: 赤々舎
- 発売日: 2013/04/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『ミルフイユ05 技と術』AKAAKA
五野井郁夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。
せんだいメディアアークの機関誌第五号です。五野井様のエッセイ収録。
ソクラテスは、問いました。はたして「弁論術」は、「技術」なのだろうか、と。
ソクラテスの答えは「ノー」です。
弁論術とは、「経験」にすぎません。それは「喜びや快楽を作り出すことについての経験」である、とソクラテスは考えました。
弁論術とは、聴衆にとって、快いことだけをめざとく狙う仕事である、とされます。するとそのような弁論術は、何が最善であるかを無視して、聴衆にこびて、迎合することになります。それは、劣悪な政治術であるとされます。
弁論術は、生まれつきすごい腕前を見せるような精神の持ち主がおこなう仕事で、押しが強くて、機敏でなければなりません。
もし弁論術が「技術」であるとすれば、聴衆の気分を害してでも、何が最善であるのかについて探求し、それを発見したのちには説得することができるものでなければなりません。ただそのような技術は、弁論の領域を超えたものになるのでしょう。
私たちの社会ではしかし、弁論は、無知な聴衆に「何かを信じ込ませる」ことではなく、知識がある人たちに対して、何かを説得する技術としても用いられています。ソクラテスは、そのような想定を、『ゴルギアス』ではしていなかった、ということになるでしょうか。
ディベートは、その意味では「弁論術」というよりも「説得術」ですね。それは、経験というよりも技術であり、学習可能です。迎合的な喜びや快楽を作りだすよりも、批判的な闘争と説得を作りだします。ディベートは、たとえ聴衆に迎合する場合でも、同時に、聴衆たちの「批判的な理性」にも訴えなければなりません。