■全体主義体制と戦後福祉国家体制の差異は?

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

牧野雅彦『精読 アーレント全体主義の起源

牧野雅彦様、ご恵存賜りありがとうございました。

 この翻訳を読む際に気を付けるべきは、邦訳は英語の初版(1951)を大幅に改定した1955年のドイツ語版に基づくものであり、それ以降に出版された英語版の諸版における修正は、反映されていない、ということですね。
 アーレントは『全体主義の起源』の結論部分で、次のように述べています。
 「すべては可能となる、という全体主義の信念が証明したのは、すべては破壊可能であるということでしかないように見える。しかしながらすべては可能であるということを証明しようと努力するうちに、全体主義体制は知らず知らずのうちに、人が処罰することも許すこともできないような犯罪があることを発見したのである。不可能なことが可能になるときには、それは処罰することもできず許すこともできない絶対的悪(absolute evil)となる。もはや自己利益、貪婪(どんらん)、貪欲、怨恨、権力渇望、臆病などといった邪悪な動機でそれを理解したり説明したりはできないし、だから怒りを覚えたとしても復讐することはできない。愛は堪えることができない。友情も許すことができないのである。」(英語版初版、p.433)
 全体主義の指導者たちは、人々を「何でもできるようにする」という仕方で指導し、人々の内面からその権力への服従を引き出す。いわゆる総力戦や、その総力戦の動員力を戦後の福祉国家形成に利用した私たちの社会も、こうした全体主義の政治権力と無縁ではないでしょう。
 では全体主義体制と、戦後の福祉国家体制は、どこが異なるのでしょうか。アーレントは次のように言います。
 「この内的な強制力[内的動機づけによる服従を調達する権力]は論理の専制であって、これに対抗できるのは何か新しいことを始めるという人間の偉大な能力の他にない。論理の専制は、自分の思想を生みだすときに頼る無限の過程としての論理に精神が屈服するときにはじまる。外的な専制に対して屈服するとき人間は運動の自由を放棄するが、それと同時に論理への屈服によって人間は内的な自由を放棄するのである。人間の内的な努力としての自由が何かを始める能力と同一であることは、政治的現実としての自由が人間と人間のあいだにある運動の空間と同一であるのとまったく同じである。」英語第二版、p.473、邦訳第三巻291-292, 317頁。
 アーレントはここで、ある特定の論理体系の受容によって「何でもできるような気になる」ことを全体主義的な自由であるとします。これに対して、そのような論理体系から解放されて、新しい何かを始めることが「政治的自由」であるとしています。活動としての自由と言ってもよいでしょう。
 もし本当にすべてが可能になるとすれば、新しい事柄も可能になるはずですから、アーレントのいう「新しい何かを始めることとしての自由」も、その中に含まれてしまいます。しかし全体主義の思想は、そのような潜在的に新しい事柄が生起することを、全能としての自由のなかに含めなかったのでしょう。ここに問題があったのではないでしょうか。あらかじめ規定された体系に基づく全能感よりも、新しい創造のほうが、政治的にはすぐれた体制を生み出す価値となる。しかし新しい創造は、別の意味での全能感を必要としているようにも見えます。もし私たちが、新しい何かを始めるために必要な、ミクロな権力を内面的に受け入れるのだとすれば、それは権力への服従といえます。その服従とは、各人が個別的な仕方で、芸術の創造神に帰依することであるといえるかもしれません。
 むろん、アーレントはこのようには考えなかったかもしれませんが、全体主義体制における総力戦と、戦後の福祉国家における人々の潜在能力の動員体制を規範的に区別するとすれば、このような点にあるのではないか、と私は見ています。でもこのように考えると、規範的に望ましい福祉国家とは何か、という問題に、アーレント的な「活動」の理想という観点から、一定の理論的基礎を与える作業が必要になります。現在、私が考えているのは、このような可能性についてです。