■あたかも合理的であるかのように振舞う

ポリティクス・イン・タイム―歴史・制度・社会分析 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 5)

ポリティクス・イン・タイム―歴史・制度・社会分析 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 5)

ポール・ピアソン『ポリティクス・イン・タイム』粕谷祐子監訳、勁草書房、2010年

・粕谷祐子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

・行為者は、最も効率的に、制度をデザインできるという意味で「合理的」なのではない。人間の行為にはさまざまな意図せざる結果がある。このことは避けられない。だがやはり、マクロ的な制度は、長期的には一定の趨勢をもっている。だからその趨勢を考慮して行為できるなら、それが、人間の「合理性」といえる。

・では人びとは、長期的な趨勢を、いかにして知ることができるのか。無知な人間は、その趨勢を認識することができない。そこで合理的な制度とは、その環境の下で、人々が、学習のインセンティヴを与えられているような制度であるか、あるいは、人びとがもっとよい仕方で行為すべく、協調的・競争的な環境におかれるような制度である、ということになる。

・社会の複雑性は、学習が意味をもちうるところまで、縮減されなければならない。そうでなければ人びとは学習へのインセンティヴをうしなってしまう。自分の学習的成長が、制度の長期的趨勢に対する考慮に結びつくように制度を再編せよ。これが成長論的発想。

・また社会の複雑性は、次世代に何かを託すことが有意義である、と思えるところまで、縮減されなければならない。そうでなければ、人びとは自身の利己心を、次世代への配慮にまで拡張することができない。またそうでなければ、人びとは、慣習や伝統に従うことの意義を見失ってしまうだろう。次世代への配慮が、制度の長期的趨勢と一致するように考慮せよ。これが進化論的な発想。

・人びとは、成長論的な発想や、進化論的な発想に導かれている場合に、制度の長期的な趨勢を考慮することができるのであり、しかも合理的であるといえる。ただ、いずれにせよ、発想そのものは、必ずしも長期的趨勢の確実な考慮とは結びつかない。だから主体の合理性は、「あたかもマクロ状況からみて合理的であるかのように振舞う」ということにとどまるだろう。私もあなたも、制度の長期的趨勢をあまりよく知らない。だから、私の視点から、あなたのほうが非合理的とはいえない。あなたは「あたかも合理的」であり、私も「あたかも合理的」であるという、そういう想定をひとまずしなければならない。その上で、もっと成長論的・進化論的な制度を考える、ということになるだろう。