■歴史の茶番を避けるために

大澤真幸THINKING「O」第2号

大澤真幸THINKING「O」第2号

大澤真幸編集の雑誌『THINKING O(オー) 第二号』2010年5月、左右社

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

・選択とは、一般に、一つの「類」(全体)のなかから、ある一つないし少数を選ぶ、ということだとされている。ところが「真の選択」、「根源的な選択」というものは、ある一つないし少数を選択することが、同時に、類(選択肢の全体集合)を選ぶことになるケースである。どの選択肢が、選択肢全体を僭称できるのか。それが争われる場面こそ、抜き差しならない選択である。例えば、首相を選ぶことは、日本全体を選ぶことである。結婚相手を選ぶことは、人生の全体を選ぶことである。ある社会運動に身を投じることは、自分の実存全体を選ぶことである、等々。もちろん、サルトルのいう根源的な選択は、そのつどの選択の累積であるとされているのだが。実際問題として、一つの選択肢が、選択集合全体を代表することは、まれである。ところが私たちは、選択を、そのような根源的なものとして構成することに、実存の契機を織り込みたくなる。

マルクスは『ルイ・ボナパルトブリュメール一日』の冒頭で、のちに有名となる格言を記している。「歴史上のあらゆる出来事は、二度現れる。ただし一度目は悲劇として、二度目は茶番(笑劇)として。」
 フランス革命は、「自由・平等・友愛」を掲げて制度変革を断行し、結局、悲劇的な結末を迎えるのだが、この同じ革命の理念を、後の世代の人たちが実現しようとしても、それはすでに、目新しい試みではなくなっている。私たちはすでに、フランス革命のような夢を見てしまったのであり、その夢は、後の制度改革において、ぜひとも実現してもらわなければ困るものとして、認識されはじめる。果たされなかった約束を、果たしてもらう。ただそれだけの要求に過ぎなくなってしまう。これではもはや、革命は人びとに夢を与えない。だから革命は、二度目には茶番となってしまう。
 ところがマルクスは、この茶番をいかにして回避するか、という問題を、よく考えた。フランス革命と同じ理念を掲げても、歴史はもはや、茶番にしかならない。むしろ、新しい革命の理念を掲げなければならない。しかもけっして茶番にならない仕方で革命の理念を語ることができれば、その思想は長く人びとの心を捉えるだろう。
それはいかにして可能であろうか。共産主義の革命は、実は、どんな具体的制度にも、決して受肉化されないようにできている。労働者を賃労働から解放し、貨幣を廃止し、コミューン関係を築くというのは、端的に行って、制度化されない理想なのである。だからマルクス主義の革命は、何度やっても茶番にならない。次の革命は、これまでよりも、もっと制度的なビジョンがある、という具合に、つねに新たなビジョンを提起できるようになっている。
 茶番にならない革命。それがマルクス共産主義革命である。これはフランス革命とは決定的に異なる。フランス革命の理念は、制度に体現できるものである。ところがマルクス主義革命の理念は、制度に体現できない。むしろマルクス主の革命は、人びとを、ある不可能な願望の空間に招き寄せる力をもっている。マルクス、その不可能性の中心。これこそマルクスの魅力ではないか。