■メディア人間のポテンシャルとつまらない日常

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

和田伸一郎著『存在論的メディア論 ハイデガーヴィリリオ新曜社、2004年

和田伸一郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

・メディア利用者は、メディア技術の世界においては、高速度で移動することができる。メディア利用者は、遊牧民であり、メディアの世界では「実存」を問われることなく、「脱-存」として存在する。しかしその存在は、メディアの背後に後ずさりしているのであり、どこにもいかず、ただ定住している、つまらない存在。メディア利用者は、メディアによって頽落しており、不活性であり、惰性で生きている。そんな実存者として、メディアは、存在者の存在を拘束している。

・どこにも行かずに、じっとしたまま、高速の経験をすることができるというメディア社会。私たちは、実存としてはほとんど可能性を持たないが、メディア技術の可能性を実験的に試みるかぎりにおいて、メディア技術のポテンシャルを開拓していくことができる。存在のポテンシャルではなく、技術のポテンシャルのフロンティアとなる。ポテンシャルの高い「脱-存」になることが、メディア時代の「能力の全面開花」を方向付けている。

・実存的なヒューマニズムから、最も隔たったところに、メディア人間の脱-存があり、またポテンシャルの試行として生きるような理想がある。そこでは、「人間性」とか「主体性」の理想は、通用しない。近代人は、メディアに操られる人間になるか、それとも、メディアに操られない自律した人間になるか、という問いを立てた。これに対して、私たちのロスト近代社会においては、メディアを享受する際に、たんに受動的に頽落するのか、それともメディア技術を駆使してそのフロンティアを広げるのか、という具合に問いを立てることができるだろう。実存の美徳よりも、潜在であることの美徳が称揚される。そのようにしないと、技術フロンティアを開拓できないのだ。ロスト近代の駆動因は、技術ポテンシャルのフロンティア探究者である、ということになる。しかしメディア人間の存在そのものは、つまらない定住的実存に拘束されている。