■新しい公共性を知るためのテキスト

アクセス公共学 (新アクセス・シリーズ)

アクセス公共学 (新アクセス・シリーズ)

山脇直司/押村高編『アクセス 公共学』日本経済評論社、2010年

・山脇直司様、押村高様、ご恵存賜りありがとうございました。

・小林先生の最初の論文で、「リベラル公共」と「コミュナル公共」を分けていますが、この点について。リベラル公共とは、リベラリズム、あるいはリベラルな共和主義者が掲げている「公共」の理念で、それは「公開性(オープンネス)」ということになる。これに対して「コミュナル公共」というのは、コミュニタリアニズム、あるいはコミュニタリアンの共和主義者がかかげている理念で、それは多くの人々に共通する意見の一致や同一性をもった価値ですね。各人はそれぞれ相違点や差異があるとしても、それを超えたところに、何らかの共通性を持っている。その共通性を「価値」として掲げる場合には、「コミュナル公共」となる。

・いま「新しい公共調査会」ということで、民主党NPO, NGOの再編を検討していますが、その場合に必要な「新しい公共性の理念」とは、なんでしょうか。いろいろあるでしょうが、「リベラル公共」も「コミュナル公共」も、さらにその他の公共理念も求められているのでしょう。NPO, NGOが、国家の共通善のために活動するという場合、それは「コミュナル公共」です。でも、NPO, NGOを、まさに国家と距離を置きながら動員し、促進し、包摂するための統治術に関わる「理念」は、やはり「分散統治」のための「別の公共性」であり、いまそれが求められているようにみえます。

・この点は別の機会に検討するとして、「コミュナル公共」は、実はその人の人格を承認すると同時に、その人の人格を共同体の超越的な人格と同一視するという、二つの側面がありますね。この二つの側面を動態的なプロセスと考えて、承認の過程が、個人の人格の発達と、国家の発展の、両方を可能にするためには、どんな公共性の理念が必要なのか。「コミュナル公共」のいう「共通善」を、いかに解釈するのかという問題です。コミュニタリアニズムと成長論的自由主義のあいだの関係は、この問題をめぐって争われるだろうと思いますが、多くの点で共通するだろうとも思いました。