■大地震による原発爆発を考える

 この度の大地震で、被災された方々、犠牲になられた方々のすべての皆様に、心より、お見舞い申し上げます。 津波によって、一瞬にして街が消えてなくなるという事態に、私は心底、震えます。亡くなられた方々の命に、できるだけ寄り添いたい。何度も、お祈りを捧げます。この苦境をしかと受けとめ、なしうることを的確に考え、対応していきたいと思います。

 地震について、考えます。昨晩、あるニュースの解説で、こんなコメントがありました。今回の地震は、日本では江戸幕府開闢以来の、400年に一度の大地震なのだ、と。
 でも、だからといって、原発の爆発を、防ぐことはできなかったのでしょうか。400年に一度のリスクだから、「仕方がない」ということになるのでしょうか。

 世界全体では、20世紀だけでも、今回と同じくらいの規模の地震が、4回も起きています。これは後知恵にすぎませんが、私たちは、あらゆる地震の情報を検討したうえで、この程度の規模の地震にも耐えうる原発を、定期的に設計しなおす機会をもつべきだったように思われます。(後知恵で偉そうなことを言ってすみません。)

 元技術コンサルタントの吉田章一さん(73歳)は、3月14日の朝日新聞「声」の欄で、次のように書いています。「福島第一原発について知るかぎりでは、自家発電での正規のバックアップ機構が地震のため作動せず、消防自動車のポンプで代用したという。消防自動車用のポンプで代用できるのであれば、どうしてそれと同等なものを正規のバックアップに設定していないのかが問題点なのだ」と。

 これは要点を突いた問題提起であると思います。私たちは、このバックアップ問題を考えなければなりません。原子力発電所の爆発は、はたして防ぐことができたのかどうか。この問題に対して、私たちはいま、国民的に納得のいく議論をして対応策をたてなければなりません。原子力発電の安全性は、いま根底から揺らいでいます。

 電力に依存しすぎた私たちの生活も、問題です。 この40年間で、日本では電力の消費量が約10倍になった、というデータもあります。実際問題として、いま政策的に考えるべきは、例えば、エネルギー消費に追加的な税を課すことかもしれません。そのような課税は、一方では、技術革新を促すと同時に、他方では、経済と生活スタイルの転換を促すと期待されます。

 電力の消費量を抑えながら、いかにして経済を活性化することができるのか。いかにして豊かな経済社会を築くことができるのか。ライフスタイルの転換を媒介にして、経済を活性化すること。そのようなシナリオをあらたに描くことが、いま、求められているように思われます。はやく復旧して、もとのポストモダン消費社会に戻ればいい、ということではないと思います。

 反原発運動についても、再評価が必要です。反原発運動は、1970年代に盛り上がりをみせたものの、次第にジリ貧となりました。原発リスクの議論は、専門家レベルに移ってしまい、民衆の危機意識は、「非科学的」なものとみなされてしまいました。これは、リスクに関するコミュニケーションのパラドックスです。

 リスクは、それがどれほどのリスクなのか、専門科学的にしか、確定することができません。それ以外の判断は、素人的判断としての「危険」とみなされます。専門的判断としての「リスク」と、民衆的な不安としての「危険」のあいだには、超えがたい線が引かれてしまいます。「危険」は、非科学的な不確実性として、制度的には、うまく扱うことができなくなります。しかし、原発が爆発するかどうかは、やはり私たちの想像力に依存しているのであり、それはリスクを超えた「危険」の問題でもあるのです。この「危険」に対する意識を、私たちは政治的に表現し、訴え、また生活レベルで再考しなければなりません。「危険」と「リスク」のあいだに、豊かなパイプを設けなければなりません。

 今回の地震は、天災であるとしても、その危険をあらかじめ想像して対処する力は、やはり私たちの理性と想像力にかかっています。その意味で、天災は、私たちの理性と想像力の非力を露呈させます。私たちはいま、科学技術に対する信頼を猛省するとともに、他方では、科学技術に対する不信に陥らない仕方で、この挑戦を受けとめなければなりません。