■最悪の「レベル7」

20110417

 去る4月12日に政府は、福島における原発事故の評価が、チェルノブイリとならぶ「レベル7」である、と発表しました。すでに事故から一か月が経ち、しだいに人々の心も風化してきた矢先のことです。
 「最悪のレベル7でも、この程度なのか」と感じている人もいるかもしれません。一か月前の時点で「最悪」と思われたシナリオは、もっと悪いものでした。例えば、東京から人々が逃げ出す、東京が機能しなくなる、そして私たちは、遷都を含めて、都市機能の分散を考えなければならないという、そういうシナリオであったと思います。
 もちろん、これからそのような事態に陥る可能性も、皆無ではありません。しかし今の時点で、福島第一原発の事故が、はたして原子力エネルギーの推進に歯止めをかけるほどのものなのか。それを見定めることは、まだできません。チェルノブイリでの原発事故は、ロシアにおける原子力エネルギーの開発に、歯止めをかけませんでした。
 いずれにせよ、問われていることの本質は、時代の大転換であり、このメガ級の問題を前にして、私たちは思考停止状態に陥っているようにもみえます。例えば私たちは、消費を自粛しないで、日本経済をしっかりと支える必要があると助言されていますが、その一方で、消費マインドは低迷しています。いったい私たちは、これまでと同じような仕方で消費生活を送ることができるのでしょうか。これまでと同じような生活を送ったとしても、満足できないのではないでしょうか。私たちは、生活スタイルそのものを問われています。ところが、どんな生活スタイルが望ましいのか、まだ確信を持って言うことができません。
 実は今年の初めに、私はSynodos/WebRONZAのサイトに、「ロスト近代」の到来、という拙文を書きました。芹沢さんから、新たな年を展望するような、年頭にふさわしいものを書いてほしいという依頼があって、それでちょっと抽象的な仕方で、時代認識のフレームワークについて書いたのです。「ロスト近代」というのは、いま私が書いている本のタイトルでもあるのですが、要するに、「ポスト近代」が終焉して、新しい時代がはじまった、という時代診断です。
 私たちの意識は、まだこの時代の大転換に追いついていないかもしれない、という診断を、私は年初にしました。ところが本当に大きな転換点は、暴力的な仕方でやってきました。3月11日に起きた、東日本大震災原発事故のことです。この大事件は、「ロスト近代」への時代転換を、いわば無理やり覚醒させることになった、といえるでしょう。私たちは、否応なしに、しかも急速に、新たな時代のモードに巻き込まれています。しかしそれがどんな転換なのか、まだよく分からないでいます。いったい、「レベル7」という原発事故の評価は、例えば広島・長崎における原爆や、「敗戦」という時代経験と比べて、どんな意味を持つのでしょうか。
 それを見定めるためにも、必要な思想資源をできるかぎり手がかりとして、新たな時代の座標軸を提起していかねばなりません。「ロスト近代」の到来とは、どんな射程をもつ時代経験になるのか。こうした問題について、引き続き、考えていきたいと思います。