■社会学は「意味」、政治学は「価値」を求める?

盛山和夫社会学とは何か』ミネルヴァ書房

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 本書は、盛山社会学のエッセンスですね。と同時に、社会学理論の入門書にもなっています。これまで、盛山先生が論じてきたさまざまな事柄が、一つのビジョンとなって結実しています。これまでのご研究の成果が視軸となって、一貫した、新しい社会学の入門書が書かれているのですから、社会学者として、まさに「かくあるべし」という模範を示しているのではないか、と感じました。本書の出版を、こころより、お喜び申し上げます。

 重要な論点は、リベラリズムコミュニタリアニズムアウフヘーベンする社会学の企て、というものだと思いました。いわば、「意味」派社会学の立場から、規範理論を総合する、という企てでしょうか。

 リベラリズムは、(1)「個人は自らの善の観念、すなわち自己の存在の意味、価値、アイデンティティなどを主体的に形成している」、(2)「しかし、人々の善の観念はバラバラである」、(3)「よって、われわれは、人々の善の観念に依存することなく、それを超えた視点において規範的原理を構築すべきだ」と発想します(本書238頁)。

 これに対してコミュニタリアニズムは、(1)「個人の自己、すなわちその存在の意味、価値、アイデンティティは意味世界において与えられる」、(2)「人々の意味世界は同一である」、(3)「よって、その意味世界において規定される内容が、規範的に妥当すべきだ」と発想します。

 しかし、リベラリズムコミュニタリアンもうまくいかないので、盛山先生は、次のような立場を主張されています。(1)「個人の自己、すなわちその存在の意味、価値、アイデンティティは意味世界において与えられるが、同時に、その意味世界を主体的に生み出す」、(2)「しかし、人々の意味世界はバラバラである」、(3)「にもかかわらず、何らかの共通に受け入れることができるような意味世界の部分を新しく見つけるべきだ」、と。

 例えば、雇用保険とか年金制度というのは、国家の共通善として、コミュニタリアン的に求められるのかといえば、そのように考える人もいますけれども、それらはたんに、「リスクに対する制度的なヘッジにすぎない」、と考える人もいるでしょう。しかし、たんなるリスク・ヘッジにすぎないとなると、これらの制度は崩壊してしまう危険があります。やはり多くの人々が、そこに「価値」以前の、あるいは「リスク・ヘッジ」以上の、「共通の意味的世界」というものを、背景として構築していかなければなりません。「共通の意味を理解する」という仕方で、リスクに対する安定した共通の対処がはじめて可能になるからです。そのような仕方で、福祉制度は、社会学的な仕方で正当化され、維持されなければならないのでしょう。

 これはロールズ『正義論』の第三部のテーマですね。共通の意味世界があってこそ、連帯は強化されるという。

 「保険(リスクへの理性的対応)」と「意味世界」と「共通善」という三項図式のなかで、「意味世界」が規範理論において果たす機能(役割)について、あらためて考えさせられました。