■ハイエク主義は信任義務を認めるべきか

ハイエク主義の「企業の社会的責任」論

ハイエク主義の「企業の社会的責任」論

楠茂樹『ハイエク主義の「企業の社会的責任」論』勁草書房

楠茂樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 信任義務(fiduciary duties)とは、受託者が本人に対して、本人の最善の利益に向けて、忠実かつ誠実に行動する義務のこと。例えば、企業は、株主の最善の利益に向けて、信任義務を負っている、と言えるかもしれません。あるいは企業は、「本人」の概念に、株主以外のステイク・ホルダーを含めて、広く社会一般に対して、人々の最善の利益に向けて行動する義務がある、と考えることもできるでしょう。このような「義務」の観点からすれば、長期的にみて、企業がたとえ株主の利益を最大化しなかったとしても、それは信任義務違反ではない、ということになるでしょう。

 信任義務論は、信任の対象となる「本人」が「株主」の場合は、経済的に組織された集団をコミュニティとみなします。あるいは「本人」というものが、「同じ社会に暮らす市民すべて」を意味する場合は、すでに「社会的に構成された集団」を、コミュニティとみなすでしょう。企業は、こうしたコミュニティに対して、何らかの「義務」を道徳的・法的に負う、と考えるでしょう。

 しかし開かれた社会においては、こうしたコミュニティの単位が要請する道徳的義務に縛られることなく、企業は法の下で自由に行動することができます。ハイエクであれば、コミュニティに対するいかなる信任義務も、必要ない、とみなすかもしれませんね。本書は、そのような立場から、ハイエクの「開かれた社会」という秩序構想を支持します。

 ただハイエクは、中間集団を慣習の基礎とするような「開かれた社会」の秩序を構想していた、と解釈することもできるでしょう。企業は、政府・国家を単位とする「人工的な社会」に対しては道徳的義務を負わないとしても、自生的な中間集団である「地域コミュニティ」や、企業共同体に対しては、ハイエクは、なんらかの信任義務を認めるかもしれませんね。

 これは解釈の問題ですが、ハイエク主義をどのように発展・継承するか、という問題に踏み込みます。一つの思想的な展望は、中間集団に対する信任義務を認める方向に、開かれた社会の秩序を描くことです。ただこのように発想すると、信任義務論としては、とても複雑な判断をすることになり、難しいかもしれません。自然法という慣習法によって調整できる範囲で、信任義務論を位置づけることが、どのような議論になるのか。いろいろと思考をかきたてられました。