■共同体を去るということ

イーストウッドの男たち―マスキュリニティの表象分析

イーストウッドの男たち―マスキュリニティの表象分析

ドゥルシラ・コーネル『イーストウッドの男たち マスキュリニティの表象分析』、吉良貴之・仲正昌樹監訳、御茶の水書房

吉良貴之様、仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 アメリカの「真の西部」で、どのようにすれば「一人前の男」になれるのか。映画におけるこうした舞台設定は、そもそも仮想的であって、歴史的に実在した「一人前の男」の理想ではない、ということですね。失われた「西部」を「夢想」して、自分がそこでいかに振舞うかを演じる。そのような時代錯誤的な仕方でしか、現代においては、「一人前の男」というものが表象されない、ということです。

 コーネルのイーストウッド解釈では、マスキュリニティの理想を追求することが、パロディ化されています。あるいはアイロニーによって、冷ややかに捉えられています。そうしたアイロニーの自己反省意識は、しかし、マスキュリニティの理想が、じつは「空虚」である、「不在の自我」である、ということを教えてくれます。それでもなお、マスキュリニティの理想が求められるとすれば、それは、どれだけの道徳的な傷を残すことになる。いろいろと論じられていますが、まとまった結論があるわけではありません。どれも根源的な問題を問うています。

 アイロニーによって自己反省意識を高めた空虚な自我、というのは、近代的な自我の一つのモデルでしょう。これはアメリカでは、例えば、リバタリアンの流れ者という、一つのタイプになる。リバタリアンの「流れ者」は、いかに困難な「自我」を形成せざるを得ないのか。共同体を去るということは、他者とどんな関係を結ぶことになるのか。その困難について考えさせられました。

 他方で、アイン・ランド的な都市型のリバタリアンとは対照的なものとして、「西部的リバタリアン」をもっと理想視するような思想があってもいいのではないか、とも思いました。それがないから、結局、映画批評的なアプローチが必要になるわけですね。