■ドゥオーキンの難点は外的視点を軽視すること

ドゥオーキン: 法哲学と政治哲学

ドゥオーキン: 法哲学と政治哲学

宇佐美誠/濱真一郎編『ドゥオーキン 法哲学と政治哲学』勁草書房

宇佐美誠様、濱真一郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 ドゥオーキンの法哲学を批判的に検討した論文集ですね。最初の宇佐美先生と濱先生の紹介を読んで、おおよその状況を掴むことができました。ハートとドゥオーキンの論争は、ハートの遺稿をもとに再開され、そしてドゥオーキンの2006年の著作、『法服を着た正義』(邦訳は『裁判の正義』)でもって、さらに応答されています。
 この論争をどのように受けとめるか、というのは法哲学における一つの重大な問題でしょう。ハートに対するドゥオーキンの最初の批判が出たとき、私はそれでハートに対する批判をする意味がなくなった、と感じましたが、本書ではなんと、森村進先生が、ドゥオーキンに対する徹底的な批判と、ハート擁護論を展開しているではありませんか。
 森村進先生ほどの抜きん出た思想家でなければ、こうした徹底的なドゥオーキン批判はできないかもしれません。それはとても抜本的な批判であり、まるで議論のテーブルがひっくり返るような魅力がありました。
 森村先生によれば、一般の私人をはじめ、法現象にかかわっている当事者たちの多くは、つねに内的視点をとっているわけではありません。また、多くの法現象は、当事者たちの主観的な意図や解釈から離れて生じています。
 また、「法の帝国」のなかには、居留外国人も存在しているわけであり、ゲームに対して内的視点を取っていない人も、法に拘束されているのが現実です。そうした人々をどのように扱うのか、という問題は極めて実践的ですね。森村先生は、「私はドゥオーキンの政治「共同体」に住みたくない」とも述べています。96頁。
 ドゥオーキンの「正答テーゼ」に対する森村先生の批判もまた、パンチがありました。およそ分化したシステムに内在的な視点でもって対応すれば、そのシステムは最もうまく機能するはずである、という考え方は、期待はずれに終わります。システムに対する外的な視点、(例えば法であれば、経済的な視点)というものがなければ、分化したシステムをうまく調整できない、ということでしょう。いろいろと啓発されました。