■思想の抗歴史的な一貫性について

民主政の不満 下―公共哲学を求めるアメリカ

民主政の不満 下―公共哲学を求めるアメリカ


マイケル・サンデル『民主政の不満 下』小林正弥監訳、勁草書房

小林正弥先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 上巻については、私は以前論評したことがありましたが、このたび、下巻も刊行され、これでサンデルの主著の全体が紹介されたことになりますね。
 政治理念における美徳の問題が、いかにして語られ、そして最終的には忘れ去られていったのか、という問題について、アメリカの政治史を一つのドラマのように描き出しています。ケインズ革命というのが、最もパンチの効いた「反-美徳」の政治で、これに比べると、レーガン新自由主義は、新保守主義とも結びついて、地域共同体の美徳を再生する方向にも向かうわけであり、コミュニタリアンにとっては、現代のネオコンによる美徳の再生と、どのような関係を取り持つのか、ということが、一つの重要な問題になるのではないか、と思いました。
 それにしても、思想の布置連関というのは、時代とともに変化していくので、例えば、この二百年間の思想状況の変化を見通した場合に、自分の思想がどれだけ一貫した立場になりうるのか、ということを考えることは、とても意味がありますね。
 サンデルの場合、そのような歴史のなかで、自己の立場を一貫させようとしていますので、思想そのものの体系というよりは、その都度の立場表明を歴史的に一貫させることによって、思想の「強度」や「深み」を出している、という感じですね。
 アメリカの歴史の特異なところは、独立自営農民のようなモデルが、資本主義の原始蓄積段階で求められる場合に、それが封建的な支配体制に対する革命的な意味を持つのではなく、そもそもそのような人民からなる共和主義的な国家というものを想定することができます。ですので、共和主義のこのモデルは、コミュニタリアン的であり、またリバタリアン的であると同時に、反進歩主義的で、反経済成長主義なもののように理解されます。けれども他の国では、このモデルはやはり進歩主義的なものであり、また経済成長のための礎として意義を持つ、とされるでしょう。
 最も論争的なのは、現代において、商店街(小売)を擁護する際に、それが「政治的に自律した判断のための経済的な自律の基礎」であるという人格上の理由から、どこまで正当化可能なのか、という問題です。多くの人々が、大企業や中小企業に勤めている社会で、政治的に自律するための経済的基礎とは何か、という問題が、改めて問われているのだと思います。