■排除しない共同体は、可能的世界の評価を必要とする

社会保障と福祉国家のゆくえ

社会保障と福祉国家のゆくえ

斎藤純一/宮本太郎/近藤康史編『社会保障福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版

斎藤純一様、宮本太郎様、近藤康史様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 社会保障福祉国家をめぐる最新の論文集です。
 「ソーシャル・ミニマム」よりも、「ベーシック・キャピタル」を給付の対象にするという、現代福祉国家の新しい構想は、どんな思想に基づいているのでしょう? ベーシック・キャピタルは、社会的協働への参加を保障するために必要であると同時に、その他、さまざまな理念からその必要性を論じることができるのではないか。とすれば、これはとても興味深い思想的問題を提起している、と思いました。
 第一章の斎藤純一先生の論文は、ロールズの財産所有のデモクラシーを読み込んで、リベラルな福祉国家を、もっと市民派的な共同体主義から解釈するというものです。すなわち、どんな人も、社会的な協働(市場への参加ではなく市民社会への参加)から排除されてはならない、という理念を提起しています。
 その際の問題点として、次のようなことがあります。すなわち、どんな共同体でも、それに固有の評価基準というものがあって、その基準からみて排除されてしまう人、あるいは、コミュニティの他者の評価を享受できないという人が、生じてしまいます。およそ社会が、各人に「自己尊重(self-esteem)」の感情を保障することは、その人の活動に対する「現在の評価」によって評価するかぎり、不可能でしょう(19頁。)社会は、あらゆる人の「自己尊重」の感情を、現在の評価によって保障することはできません。
 ある共同体において、「何をなしてきたのか」「何をなしうるのか」という観点からのみ人間を評価すると、共同体から排除されてしまう人が生じる。そのような人をどのようにして救済することができるのでしょう。おそらく、現行の諸々の評価基準では評価できないような、別のオルタナティヴな評価基準が必要になるのでしょう。
 「排除なき共同体」を展望するためには、「別の評価基準であれば、この人を承認することができる」という、仮想的な評価社会の重要性を認めなくてはなりません。そのような社会を想定して、はじめて、排除される人がいなくなるからです。
 そのような可能的な世界の評価基準を、できるだけ現勢化するためには、各人に、さまざまな社会的協働への参加を可能にするための、ベーシック・キャピタルが必要になる、ということになります。
 このロジック、もっと探究するに値すると思います。アセット・ベースの社会という構想は、「可能的世界」を想定する思想的立場からみて、とても重要です。逆に、「自己尊重」の感情を含めて、すべてのケイパビリティを「現実的世界」において実現可能なものにするという発想(アリストテレス的な潜在能力論)は、ベーシック・キャピタルのような立場を、美徳の実現からの一歩後退である、とみなすかもしれません。

 このほか、新川敏光先生による、福祉レジームの四類型、84頁、は重要です。