「政治」の四類型は、「経済」にも当てはまる

政治理論入門―方法とアプローチ

政治理論入門―方法とアプローチ

デイヴィッド・レオポルド/マーク・スティアーズ編『政治理論入門 方法とアプローチ』山岡龍一/松本雅和監訳、慶応大学出版会

山岡龍一様、松本雅和様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 本書は、政治哲学や政治理論を専門とする人のための入門書です。研究のための「方法論」や「アプローチ」にこだわって、さまざまな観点から、最先端の研究成果を紹介しています。全体として、かなり統一されたスタイルになっています。それはある意味で、個々の執筆者の個性がみえないほどなのですが、徹底的に分析的な研究方法というものを、突き詰めています。

 どの章も徹底的で申し分ないのですが、エリザベス・フレイザーが担当した第九章「政治理論と政治の境界」は、興味深く読みました。
 目的と手段に注目してみると、「政治」概念は四つに分類することができます。
 第一に、あらゆる目的について、それをあらゆる手段で実現する際に問題となるもの、つまり「すべては政治的である」という場合の政治とは、あるテクニックの側面に関わるものですね。
 第二に、ある特定の目的について、それを実現するためならどんな手段でもかまわない、という場合の政治。この場合の政治は、マキャベッリ的な意味を伴います。
 第三に、あらゆる目的について、ある特定の手段を用いて実現することを「政治」と呼ぶ場合があります。別の手段で実現する場合には、それは「経済的に実現する」とか、「政治も経済も媒介にしないで実現する」とか、つまり、機能的な代替物があることになります。ある目的を達成するための、政治を脱政治化することができます。
 第四に、ある特定の目的について、これをある特定の手段で実現する場合に、「政治」という概念を用いることがあります。アーレントのいう「政治」とは、これに相当する、というのが著者の読みです。ある公共的な目的について、これを、公共的な手段(活動的な生にもとづく、公開的な討議など)によって実現する。そのような政治は、一方の目的がそのための手段を制約し、他方の手段が、それによって実現すべき目的を制約するという、相互に制約するような関係のなかで、限定されるものになります。
 著者は、この第四の「政治」概念に関心を寄せて、既存の政治哲学を、第一の概念から第四の概念に至る流れとして再構成しています。それともかく、同じような分析は、「経済」の概念にも当てはまるのではないでしょうか。
 第一に、あらゆる目的をあらゆる手段で実現する場合の「経済」とは、とにかく手段を節約して、目的実現のために最も効率的なやり方を選ぶというその合理性や選択性というものが、経済の本質であると考える立場です。限界効用理論やゲーム論などに立脚する理論は、このような立場に分類されるでしょう。
 第二に、ある特定の目的を、あらゆる手段で実現するという場合の「経済」とは、実体としての「経済」をまず研究対象・分析対象として特定化した上で、そのための最善の方法を、政治的な取引や分配を含めて考えるというものです。これは例えば、福祉国家の運営を研究対象とする、厚生経済学の議論に代表されるでしょう。
 第三に、あらゆる目的について、その目的を特定の手段で実現するという場合の「経済」概念があります。これは実体としての市場経済を念頭において、例えば、ある財の分配を、政治的な議論と指令によって計画的に実現するのか、それとも市場取引を通じて自生的に実現するのか、という議論をするでしょう。「経済的」な行為は、「政治的」な行為と、ある程度まで機能的に代替可能であるとみなされるでしょう。
 そして最後に、ある特定の目的について、ある特定の手段によって実現すべきであるようなものを「経済」と呼ぶことがあります。カール・ポランニーの理想とする経済とは、そのような意味の文脈を大切にするでしょう。目的と手段が、相互に制約しあいながら、経済的なものを共同体のなかに埋め込んでいく。そのような理想の一つは、共同体主義的な経済でしょう。
 こう考えてみると、20世紀の中庸に、アーレントとポランニーがいずれも思想的に高く評価されたことが、単なる偶然ではないようにみえてきます。しかしその後の思想は、どのような方向に向かったのでしょうか。
 目的と手段をめぐる、これらの四類型に含まれていないのは、マルクスの政治であり、ハイエクの経済です。どちらも、「あらゆる目的/手段」とか「特定の目的/手段」という認識枠組みを超えて、まだ潜在的な可能性として存在するにすぎない目的/手段によって、政治と経済を規定する試みだといえます。このように考えてみると、「政治」とは何か、「経済」とはなにか、について、もっと別の切り口から、本質的な議論を展開できるかもしれません。