■公共精神こそ、安全を作り出す

公共哲学からの応答―3・11の衝撃の後で (筑摩選書)

公共哲学からの応答―3・11の衝撃の後で (筑摩選書)

山脇直司著『公共哲学からの応答』筑摩選書

山脇直司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 3.11大震災と原発事故を受けて、新たな公共性が叫ばれています。東北の復興のために、私たちは本気で日本を復興しなければならない。そのための公共精神(エートス)は、どんな思想的資源によって鼓舞されるのか、という問題に応じた本です。
 とくに、高木仁三郎氏が亡くなる直前に執筆した『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書、2000年からの引用が、印象的です。
 高木氏によれば、「公」というのは、公的機関のことではなく、人間の持っている、個人を超えたある種の普遍性のことです。そうした「普遍」的な意識がないと、お粗末な原発事故が生まれてしまう。例えば、科学技術の客観性に依拠して、冷徹な業務の編成によって原発を運営していくと、そこには「自己」が抜け落ちてしまって、原発の管理にかかわる人たちは、安全のために、あるいは事故を起こさないために、緊張感のある努力を怠ってしまう。「与えられた仕事を忠実にやればいい」というような没個性的な人間になると、実は事故を防ぐことができない、というわけなのです。
 自分の持ち場や役割を越えて、「パブリック・インテレスト」(公共的な利害関心)の観点から、何か行動を起こさなければならない。そのような精神がなければ、安全を確保することができない。安全というのは、つまり、個々の人間に役割を与えることによっては確保できない性質のものだ、と高木氏は言うのであります。
 すると高木氏の観点からすれば、3.11の原発事故が起きたのは、原発の運営に関わる人々のあいだで、公共精神が欠如していたからだ、ということになるでしょう。それとも、安全を管理する際の役割分担が、明確に規定されていなかったからだ、ということになるでしょうか。
 いずれにせよ、公共精神(士気)というものは、失われたものを新たに自力で復興するという、ある種の反動的・革命的な精神によってこそ、もっともパワフルに発揮されることがあります。少なくとも地震津波で被害を受けた地域の復興は、失われたものを取り戻すという公共精神を必要としています。本書はそのためのヒントになるでしょう。