■アメリカ人の精神生活はここから始まった

メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史

メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史

ルイ・メナンド著『メタフィジカル・クラブ』野口良平那須耕介・石井素子訳、みすず書房

那須耕介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 これは本当にすばらしい本です。ピューリッツァー賞受賞作ということですが、アメリカ人の哲学的精神がいかにして育まれたのかについて、伝記的手法を用いて再構成しています。ホウムズ、ジェイムズ、パース、デューイ。それから彼らを取り巻くさまざまな人々。「メタフィジカル・クラブ」という社交的空間を通して、アメリカ人たちが、どのような精神を生きたのか。随所に興味深い物語があります。パースが極貧の生活を送っていたことや、デューイが労働者との会話で啓発されたことなどです。
 まさに、アメリカ人の精神史であり、アメリカ人はこの本を一つの典拠として、その誇りある思考活動を展開していくでしょう。歴史のなかの、精神の要となる物語であり、私たちはここから多くを学ぶことができます。
 ではいったい、アメリカのプラグマティズムとは、何であったのでしょう。
 次のように考えてみましょう。本書ではとりわけ351頁以降が参考になります。
 レストランで、ロブスターにするか、それともステーキにするか、という場面を考えてみます。経済学的に考えれば、その選択は「選好関数」に照らして、最も効用を高くする選択肢が選択される、ということになるでしょう。しかし実際問題として、選択を迷った場合には、私たちは自分の「選好関数」(あるいはたんに「テイスト」)を、よく知らなかった、ということなのでしょうか。それとも「かぎりなく無差別なので選択するための計算が難しい」ということなのでしょうか。
 ジェイムズ流のプラグマティズムの発想は、まず「選択=決断」したのちに、その決断の根拠を探る、というものです。つまり、まず選ぶ。するとその選択によって、選好関数が明確なものになる、と考えられます。選好関数は、あらかじめ明確に与えられている必要はありません。むしろ選ぶという行為が、選好関数を明らかにします。選好関数とは、選択に従属するものであって、選択に先行するものではありません。このように、選択という「行為」が、その「判断根拠」を生み出すこと、あるいは行為とその根拠のあいだには循環のプロセスがあることを、プラグマティズムは指摘します。
 選択の合理性というものは、認知的な一貫性としてあらかじめ与えられるのではなく、選択という行為によって生み出されるものだということ。合理性というのは、自己準拠的なループをなしている、ということですね。そうした合理性は、あとになってから、「やはり不合理だった」という判断に開かれています。いずれにせよ、プラグマティズムの観点からすれば、私たちはあらかじめ存在する「選好関数」と「選択肢」のあいだで合理的な計算をしているわけではなく、むしろ選択によって選好関数を産出している、ということになるでしょう。