■自生的秩序論はカウンターとして革命的な思想である

問いとしての〈正しさ〉―法哲学の挑戦

問いとしての〈正しさ〉―法哲学の挑戦

嶋津格著『問いとしての〈正しさ〉』NTT出版

嶋津格様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 嶋津先生がこれまで書かれてきたもののなかで、比較的読みやすいものを集めた論文集です。まさに嶋津先生の研究人生を凝縮した一冊ですね。(集成として、この他にもう一冊、もっと専門的な本が予定されているとのこと、こちらも楽しみです。)
 本書のなかで、やや難解とされる第二章「法における「事実」とはなにか」を興味深く読ませていただきました。それはハートの法理論に関する問題です。
 法がなんであるかを同定するためには、たんに言語によって記述するだけではダメで、そこには同定に際して使用されるメタ・レベルのルールがあるはずです。そのメタ・ルールは、必ずしも言語化されていないのですが、ただ法を扱う際の私たちの慣行(practice)に体現されていなければならないでしょう。
 ハートの理論で問題になるのは、そのメタ・ルール(ルールの正当性を承認するためのルール)を言語的に同定してしまうと、今度は、その同定=言語化が、慣行の形態を変化させてしまうかもしれず、そして法の一次ルールの形態も変化させてしまうかもしれない、という点です。
 さて、二次ルール(メタ・ルール)を言語化すれば、それは一方では、一次ルールの存在に「妥当性」を与えますが、他方では、一次ルールの存在に、それまで妥当性を与えていたはずの「慣行」を変更してしまう可能性もあることになります。
 すると問題は、もともとあった「一次ルールを正当化するための非言語的な慣行」というものに、どれだけ「妥当性」を認める「べき」なのか、という点ですね。慣行にも妥当性があったのだから、尊重しなければなりません。慣行をまったく塗り替えてもいい、というのが法実証主義だとすれば、その反対に、慣行を大切にするのが「法の支配」の立場です。
 法実証主義は、二次ルールの言語化によって、そのような慣行を自由に変更できる、と考えます。反対に、自然法の立場は、一次ルールを正当化するための非言語的な慣行をできるだけ優先しようと考えます。
 私たちは、二次ルールを言語化する際に、それまでの非言語的な慣行をそのまま分節化することができません。ただ、二次ルールというものは、できるだけその法源として、一次ルールを運営するための非言語的な慣行を重んじるべきであり、その慣行を同定するように言語化されるべきである、という立場をとることはできるでしょう。
 二次ルールを言語化して、一次ルールを修正する立場が「原理的な」リベラリズムであるとすれば、自生的秩序論的な法の立場というのは、法に対する人々の慣行を保守するものです。ただし国家によって生み出された法解釈の慣行というものは、尊重しない立場です。その意味で、自生的秩序の立場は、保守的ではなく、カウンターとしての革命を重んじます。
 現代の思想的問題として論じるためには、ドゥウォーキンのように、リベラリズムを原理的なものとして擁護する立場に対して、どのように応戦するか、ということが議論されるべきでしょう。この問題について、私も考えてみたいと思います。