■「自然の他者性」が、自然を搾取する人間の制約条件となる

実践する政治哲学

実践する政治哲学

宇野重規、井上彰、山崎望編『実践する政治哲学』ナカニシヤ出版

井上彰様、桑田学様、山田陽様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 桑田論文は、環境問題をめぐって、グリーン・リベラリズムの現代的展開を紹介・検討しています。サイモン・ヘイルウッドの「自然の他者性」というのは、理論的に面白いですね。しかしこうした「反近代主体」的な自然理解も、私たちは欧米から学ばなければならないというのは皮肉です。日本で誰か、現代の環境思想家が主張してもよさそうな議論ですね。
 自然の「他者性」というものが、いったい、どの程度の制約条件になるのか。それは、その地域の具体的かつ文化的なコンテクストに依存しているのでしょう。「他者性」とは、共同体としての価値に基づく理解を前提としています。すると、コミュニタリアニズムは、「共同体にとっての他者としての自然」という観点から、グリーン・リベラリズムの開発志向に対して、制約条件を提供することになるかもしれません。それでもヘイルウッドは、「自然の他者性」という理念装置によって、リベラリズムの思想を発展させているようです。
 私は「自然の他者性」ではなく、「自然の多産性」に注目して、その多産性を介助する人間の役割というものを考えます。「自然の他者性」という場合、その「他者性」を、私たちがどのように尊重すべきなのか、その場合の人間像はどのようなものになるのか、という点は、探究されているのでしょうか。このあたり、興味があります。

 山田論文は、「熟議民主主義」というものが、これまで例えばコーエンにおいて、社会主義の経済統治術と結びついてきたことが指摘され、現在では、その結びつきが自明ではなくなり、「公共圏」という概念装置でもって、とにかく、社会主義的な経済統治も一つの選択肢でありうることを含めて、平等な討議空間で話し合って決めよう、という論理に変容してきたことが、追跡されています。
 現代の熟議民主主義は、熟議そのものを重んじているようですが、それはある意味では、経済システムに対する明確なビジョンはないということであり、何をどのように熟させるのかについて、指針をもっていません。それでも「熟議」は、民主主義の過程に正統性を与えるプロセスなので、それが「ミニパブリック」といった、小さい討議場での討論を活性化させる装置によって補強されることは、それ自体として望ましい、ということになるでしょう。

 井上論文は、ロールズの理論前提に置かれていた人間像が、合理的に人生設計をすることができる人だとする点で、すでに古い思考になってしまった点を指摘しています。そして、行動経済学の知見などに基づく新たな人間像を、新しい規範理論の基底に据える必要がある、と指摘しています。そこで出てくるのが、スキャンロンのいう「適宜性」と、アーヌソンのいう「次善の選好」です。
 ここで問題になっている人間像は、「マキシマイザー(極大化行動者)」と「サティスファイサー(満足人間)」を区別した場合に、後者の理想を指している、といえるかもしれません。
 多くの人は、類型としては、「満足人間」であり、とくに極大化行動をとるために、最大限のコストを支払っているわけではありません。そのような満足人間でも、担いうる「責任」を、私たちは制度的に構成していくべきで、極大化しなければ十分に担うことのできない責任(例えば、大学生の奨学ローンなど)は、制度的に改良の余地あり、ということになるでしょう。これはつまり、ある種の温情主義というものが必要で、選択肢の制度的提案を人工的に構成する「温情的リバタリアニズム」のようなシステムを喚起します。

 いずれもレベルの高い、現代的な意義のある論文でした。大いに勉強になりました。