■第三の審級が世界史を動かすわけ

<世界史>の哲学 古代篇

<世界史>の哲学 古代篇


大澤真幸『〈世界史〉の哲学 古代編』講談社

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 本当にスリリングに読ませていただきました!
 とくにアウシュヴィッツの経験です。ハンス・ヨナスによれば、若いユダヤ人女性の日記に、次のような一節があるという。
 「あなた[=神]は私たちを救うことができない。そうではなくて、私たちが、あなたを救わなくてはならないのだ。そうすれば、結局、私たちは自分自身を救うことになる・・・。」
 神の無力性と無能性の問題ですね。実は、十字架へ向かうキリストにも、ヨブや、あるいはアウシュヴィッツに収容されたユダヤ人と同様の、無意味な苦難があったと考えられます。
 神は、嘲笑されながら死んでいくほど、惨めな人間であった。この「死」の事実が、キリスト教徒を、ある共同体的な親密的空間(「故郷」)の想定を越えて、ある疎遠な居心地悪さの世界に投げ込みます。そして、めぐりめぐって、共同体の特殊主義を克服する普遍主義、さらには資本主義の普遍的な運動を生み出していくことになります。その論理は、本当に不思議なのですが、世界史を運動させる最大の原動力となってきました。
 その原動力について考えてみると、それは私たちの行為が、最終的に幸福なかたちで報われるという、そういう幸福を約束する宗教の仕業ではありません。幸福なかたちで報われることを保障するのは、キリスト教の神ではありません。キリスト教は、そのような「幸福を保障する空間」としてあるのではなく、私たちにとって「他者」のような存在として、存在している。
 だからこそ、イエス・キリストは、あらゆる死のなかで、最も惨めな死に方を示さなければならなかったというわけですね。
 私たちが、「他者」としてのキリストを救ってあげなければ、私たちも救われない。すると問題となるのは、この他者性に対して、どのように向き合うか、ですね。
 他方で、キリストの死は、最も悲惨であるからこそ、その死は、高貴な人間の悲劇という様相を超えて、超人間的なレベルにまで昇華され、「崇高な死」となっています。
 ここではつまり、「他者性」の問題と、特殊性を超える「普遍化」の問題と、「崇高化」の問題が、キリストの死において、すべて重なっています。この三つの特徴において、対比されている理念は、共同性の要請(透明なコミュニケーションによってコミューンのような人間関係を作りたいという希求)、親密圏の要請(故郷のようにくつろぐことのできる空間に安住したいという欲求)、自分の人生が最後に報われることを保障してくれる神の要請。これら三つの要請であるでしょう。こうした集団形成を超える要素を、キリストの「死」が持ちえたこと。これこそが歴史のドラマ(ミステリー)であり、また資本主義や自由主義の根本的な問題であるでしょう。共同体と親密圏と幸福の保障。このような人間の欲求を、キリスト教は超えていきます。
 「第三者の審級」というものが、一つの閉じたシステムを形成するのではなく、その社会を普遍的なものとして展開し、運動していくという、その論理を世界史的に見た場合の、最も重要な論点が、キリストの死にあると考えられます。