■「普遍的正義」と「共通善」のパッケージ

2012年の正義・自由・日本

2012年の正義・自由・日本

仲正昌樹『2012年の正義・自由・日本』明月堂書店

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 リベラリズムコミュニタリアニズムについて理解するための、コンパクトに整理された入門的な講義になっていると思います。
 最後の議論が面白かったです。
 日本の大学は、もっと第三世界の諸国の学生を受け入れて、国際貢献すべきである、という議論があります。しかしそのための大学の予算は、限られています。大学は、留学生を多く受け入れる場合には、日本人の学生定員を減らして、しかも、日本人学生が支払った授業料の一部を、留学生のために用いる必要があります。こうした政策に、私たちはどこまで納得するでしょうか。
 貧しい国の留学生を受け入れれば、その国の経済発展に貢献するだけでなく、日本の経済発展にも貢献する可能性が高いでしょう。グローバル社会の所得格差は、やがて狭まると期待できるかもしれません。また、日本の社会が、グローバルなコミュニケーションに開かれ、いろいろな場面で、普遍的な正義を実現することに資するかもしれません。
 しかしそのためには、日本の学生とは異なる入学試験を課して、別枠で入学させる必要がありますね。留学生は、日本語にハンディがありますからね。するとダブル・スタンダードで入試をするということになります。するとその場合、留学生を多く受け入れるための入学試験は、公正な基準を満たしているのでしょうか。留学生の受け入れは、「普遍的正義」の理念に基づくものなのでしょうか。それとも、グローバルな貢献という、「善」の理念に基づくものなのでしょうか。
 どちらでもないのかもしれません。大学は基本的に、日本人学生を優先して合格させるべきなのかもしれません。ではそのような主張について考えてみましょう。この主張は、入試試験の「公正さ」を優先するという点で、「正義」の基準を満たしているのでしょうか。それとも、日本の大学が、日本人の学生をできるだけ多く教育するというシステムは、日本人の学力を高め、日本の国力を上げるという「共通善」の基準を満たしているのでしょうか。
 結局、この問題は、「普遍的正義」と「共通善」の単純な対立に基づいているのではなく、「普遍的正義」と「共通善」の、ある特定のパッケージの仕方が、複数ある場合に、どのようなパッケージを選択すべきか、という問題になるのかもしれません。