■共産主義とは、新たな歴史が潜在的に可能であることの肯定である

共産主義の理念

共産主義の理念

コスタス・ドゥズィーナス/スラヴォイ・ジジェク編『共産主義の理念』水声社

沖公祐様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 バディウが語っている言葉は、真実だと思います。共産主義という言葉を、うまく用いることができるかどうかは、私には分かりません。けれども、共産主義という言葉が、政治的なもの、イデオロギー的なものとしてではなく、一つの「理念」として作用するというのは、真実です。
 バディウの言っていることをそのまま繰り返すことはできないので、私なりに読み替えて表現してみましょう。
 共産主義は、人間が主体化することの理想を、いわば、潜在能力の無限の開花として捉えます。そんなことは可能なのかといえば、不可能なのですが、一つの人間的な目標になりえます。
 この目標を立てるのか、立てないのか。「共通善」のみをかかげるコミュニタリアニズムは、そのような理想を掲げないでしょう。また、ある特定の卓越した価値を掲げる「卓越主義」も異なるでしょう。
では具体的に、潜在能力が無限の方向性をもって開花していく、というのは、どんな場面でしょうか。それは、歴史が無限の可能性に開かれて展開すると考えられるような「ある地点」において、自分の存在を投げ出すことでしょう。
 「原発反対」「TPP反対」など、個々の論点においては、どちらの立場が、共同体全体の象徴的な理念を担うことになるのか、不確定です。そのような状況に身を投げること(決断すること)によって、人間は、自分の物質性を、社会的な象徴化の作用と結びつけることができます。そのような「政治的主体化」によって、個人は、はじめて、象徴的に構築された物語としての歴史の担い手になることができます。それと同時に、潜在的な可能性を手にします。現実的なものを現実的なものとして受け入れるだけでは、主体化を遂げることはできないでしょう。かといって、潜在的な可能性の開花という主題を、非政治的にとらえてしまうなら、自身の中の「潜在能力」を勢力として実現するという政治的な力の働きに、無頓着になってしまいます。
 つまり、政治的にどの主張が正しいか、という問題に答えを与えることと、政治的人間になることとは、決定的に異なります。正しさの問いに支配的な答えがなくても、あるいは支配的な答えがないからこそ、人間はそのような問いを生きることができる。と同時に、自分の無限の可能性を開いていくような契機を手にすることができるのだと思います。
 ただ、バディウの言っていることのなかで、「現実的なもの」を、「真理の手続きそのもの」として捉えることは、どの程度有効なのでしょうか。ラカンのいわゆる「主体の三つの審級」とは、「現実的なこと」「想像的なこと」「象徴的なこと」からなっています。このうちの「現実的なもの」をどのように解釈するか、という点で、「共産主義」という言葉の特殊性が生まれるのではないか、と思いました。