■ポストモラトリアム時代=ロスト近代
- 作者: 村澤和多里,山尾貴則,村澤真保呂
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2012/10/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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村澤和多里・山尾貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち』世界思想社
村澤真保呂様、ご恵存賜り、ありがとうございました。
最近の若者たちは、ある意味でかわいそうだ、というのですね。
これまで若者たちは、一定の「モラトリアム(執行猶予期間)」を与えられて、大人が果たすべき義務から免れてきました。例えば大学では、講義に出席しなくても、比較的簡単に単位を取ることができました。出席の縛りがあまりなくて、自由な時間を過ごすことができました。ところが最近では、講義への出席を含めて、大学生たちはさまざまな義務を求められるようになり、自由な時間を謳歌できなくなってきたようです。
すると大学生は、内面的な「葛藤」を通じて、自分なりに自己を確立していく余裕がなくなってきたのではないか、というのが本書の関心ですね。
私は拙著『ロスト近代』で、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」という時代区分を提案しましたが、本書は、ほぼ同じような時代区分でもって、「古典的モラトリアム」「消費社会型モラトリアム」「ポストモラトリアム」という三つを分けて分析しています。
「ポスト近代」が終わったころから、日本社会には余裕がなくなってきました。とりわけビジネスの世界は、若者たちに「即戦力」を求めるようになってきました。社会に余裕がないので、若者たちを育てようとか、優遇しようという風土がなくなってきます。「ゆとり教育」は撤回され、大学では授業日数や取得単位が厳格化されるようになりました。高校も大学も、まるで「就職のための予備校」のような性格を前面に出すようになる。つまり学生たちに「モラトリアム」を許さないような状況が生まれているというご指摘は、その通りだと思います。
では、これまでのようなモラトリアム時代のほうが、若者たちにとってよかったのか、という問題になりますね。これは大いに議論しなければなりません。
別の視点からみれば、「ポストモラトリアム」の現代社会は、大人たちにもモラトリアムをある程度分散して与えているから、若者がとりわけ特権的にみえなくなった、ということかもしれません。社会の「分化」と「複雑化」がすすむと、「自己不確実」感や、「閉塞」感、あるいは「保険感覚」や「無関心」や「自己責任」などの心理は、若者だけでなく、大人たち一般にも、みられるようになったのかもしれません。すると問題は、自分なりに自己を確立するという青年心理の物語そのものが、あるいは理想そのものが、別の理想に代替される可能性が出てきた、ということではないでしょうか。考えさせられました。