■「歴史」の観念が生まれなかったインド

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

大澤真幸責任編集『THINKING O(オー)』011、左右社、左右社

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「同一性の継続」を主題とする中国の歴史観と、「差異の反復」を主題とする地中海型の歴史観。そのはざまにあって、インドは「歴史」そのものに関心を示さなかった、というのは興味深いですね。
 「中国型の歴史」では、「善をもたらす正統なるもの」が継続している。そしてその継続を刻むことが、「歴史」であるとされます。「悪」は、「攪乱的な例外」である、とされてしまいます。
これに対して、「地中海型の歴史」においては、「善と悪の抗争」から、善の勝利というものが、物語的に引き出されます。
ところが、インドの場合、想定される「善」は、世俗的な世界の内側には存在しないので、歴史物語を構成することができません。
 仏陀によれば、「一切皆苦」であります。そのような発想をとると、「苦」からの解放は、歴史の展開において達成されるのではなく、世俗世界を超越することでもって達成される。「善」というものが、「苦からの解放」であるなら、それは「この世」において到達されることがありません。この世には「悪」だけが支配することになります。すると、「最後には善が勝つ」という「歴史の物語」なるものは描かれないわけですね。
 ある意味で、「善なるもの」は、全能感の解放であり、それは仮想的な世界でもって到達されるのでしょう。あるいは「可能的なる世界」で到達されるのでしょう。そのように考えてみると、善というのは、歴史を駆動すると同時に、歴史を終わらせるもののように見えてきます。