■ パノプティコンの徹底からその解除へ

生権力の思想―事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書)

生権力の思想―事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書)

大澤真幸『生権力の思想』ちくま新書

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

ちくま新書、1,000冊目という、記念すべき一冊を、大澤先生が担いましたね。
とてもスリリングで、理論的にも、また事例の奇抜さという点でも、興味深いです。パノプティコンは、個人に対して、潜在的に可能な、永続的な監視を続けます。その結果として、個人は絶えず自分を反省するようになり、内面の自律の契機を手に入れます。
 ところが、私たちの社会では、人が行為の度に残していく個人情報(データシャドウ)があまりにも膨大になった結果として、このパノプティコンのメカニズムが、働かなくなっている。事態はまったく正反対で、人々は、潜在的に可能な、永続的な監視体制のなかで、たえず自分を反省するどころか、むしろ自分がパノプティコンの監視人であるかのように振る舞うようになっている。
 あるいは人は、見られていることの不安ではなく、他人から注目されていないこと(承認を受けていないこと)に対して、不安を抱くようになっている。これはどうしてなのでしょう。
 「上から目線」でブログに書き込むようになっているとか、携帯電話の「接続感覚」とか、人々が「パノプティコンの監視人」のように振る舞うようになっているとか、いろいろな現象があるわけですが、こうした人々の振る舞いが、どうして潜在的に可能な監視の極限状態で生じるのでしょうか。不思議であることに変わりありませんが、監視の多極化と、自身もその監視の担い手になりうる(つまり監視される/監視するという二つの作用の担い手になりうる)ことが、関係しているのかもしれません。