■ リベラルなナショナリズムとは


土着語の政治:ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ (サピエンティア)

土着語の政治:ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ (サピエンティア)

ウィル・キムリッカ『土着語の政治 ナショナリズム多文化主義・シティズンシップ』施光恒ほか訳、法政大学出版局

施光恒様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 第一章では、マイノリティの権利をめぐる論争の経緯が整理されています。それによると、論争の最初の段階では、マイノリティの擁護はコミュニタリアンによってなされ、リベラリズムが批判されました。マイノリティは、「自律した個人としての権利」を求めているのではなく、特定の文脈に埋め込まれた「善き生」を集団の権利として求めているのだ、と理解されました。
 しかし、民族文化的なマイノリティは、本当にコミュニタリアン社会を作りたいと思っているのでしょうか。論争の第二段階になると、マイノリティもまた、自分たち自身の自由民主主義社会を作りたいと思っていることが、明らかにされます。論争はつまり、リベラリズムの内部での、マジョリティとマイノリティのあいだの対立になります。論点は、「文化」というものを、権利としてどのように位置づけるか、です。こうしてつまり論争は、「マイノリティの文化的帰属」を承認する「リベラルな文化主義」という立場に収斂していくことになります。
 もちろん、はたして文化というものが、リベラルな個人主義と両立するのか、という疑問も生じるでしょう。キムリッカは、マイノリティ集団の権利問題を二つに分けます。一つは集団内部の対立から生じる圧力への対応であり、もう一つは、集団の外部からの圧力の問題です。キムリッカは、前者に対しては寛容に扱い、後者の問題に対しては集団を保護すべきである、と発想する点で、リベラルな文化主義という立場をとります。
 論争の第三段階では、リベラルな国家が、たんに民族文化に対して中立的に振る舞うのではなく、ネイション形成的に振る舞うことが問題になります。リベラルな「国家」を形成するという点に注目すると、マイノリティもまた、国家の担い手として構成される必要があります。一定の「社会構成的文化societal culture」に統合・促進することを、はたして擁護するのかしないのか。それが争われることになりました。リベラルな「ナショナリズム」というものを具体的にイメージしていかないと、リベラリズムはマイノリティの権利について、具体的な理解を見誤ることになってしまう、というわけですね。