■エクスプロイテーションの意味

利用と搾取の経済倫理 (神奈川大学経済貿易研究叢書)

利用と搾取の経済倫理 (神奈川大学経済貿易研究叢書)

山口拓美『利用と搾取の経済倫理』白桃書房

山口拓美様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「ブルジョア階級は、世界市場のExploitationを通して、あらゆる国々の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた」(マルクス共産党宣言』)。
 ここでマルクスが使っているexploitationという言葉は、日本語では、「搾取」「利用」「制覇」などと訳されます。いったいどれが、適訳なのでしょう。
この用語の意味の広がりを考えますと、そこには剰余価値率とは別の、倫理的な内容があります。それを本書は、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチとの比較で検討しています。
 エクスプロイテーションは、過労死、健康被害、肉体的・精神的萎縮、動物化へ追い込むことへの憤怒、に対する倫理的な非難と結びつきます。
 ではエクスプロイテーションがなければ、人間は、その本来的な存在を取り戻すのでしょうか。これは規範的に重要な問題です。エクスプロイテーションがなくても、人間は、その内的な脆弱性によって、あるいは他の制度的な要因によって、その本来的な存在を取り戻すことはないかもしれません。そもそも本来的な存在の姿とは、どのようなものでしょうか。それをアリストテレスヌスバウムにしたがって、一定の目的をもち、いくつかの機能を満たしている状態と考えてみた場合、それはエクスプロイテーションからの解放に加えて、さらに人間を陶冶するための、倫理社会を前提とするものでしょう。
 このようにアリストテレス主義的に発想するか、あるいは、まったく別様に、エクスプロイテーションがない状態において、人間は、必ずしも自己の本来的存在性を実現(解放)させるわけではない、と発想するか。あるいは、アリストテレス的ではない、いわゆる倫理とは別の仕方で人間の美質を発現する方法があると考えるか。問題は、哲学的なものであり、エクスプロイテーションの定義そのものが、その対概念によって規定されることになるでしょう。
 以下は私の考察です。
エクスプロイテーションの概念を、「人間の本来性」との対比で捉えるのでなければ、もう一つの考え方は、「人間の潜在能力の全幅的実現」との対比で捉えることでしょう。これはしかし、不可能な理想です。人間は潜在能力を全幅的に実現することはできません。労働力の売り手は、労働において自己を完全に実現することはできません。
 「人間の潜在能力の全幅的実現」という考え方から出発すると、労働のための能力を身につけることは、「労働するためである」という目的-手段の連関で捉えることも、不十分です。人間の目的(テロス)は、労働を通じて自己実現すること以上のものであり、「潜在能力の全面開花」であるとすれば、それは端的に不可能なのですが、しかしその不可能性に対処するための方法はあります。一つは、労働の能力を身につけるとが、それ自体として、「エネルゲイア」の活動であると考えることです。
 もう一つは、市場を排した協業において可能になる理想を、「目的を実現する人間になること」ではなく、そもそも実現不可能な目的を参照しつつ、潜在能力を全幅的に「感じること」(実現はしないが)とみなすことです。このような考え方に照らして、エクスプロイテーションを定義するなら、アリストテレス的ではない含意(サン-シモン的な含意?)も、明確になるでしょう。