■南宋禅の慧能

哲学の自然 (atプラス叢書03)

哲学の自然 (atプラス叢書03)

中沢新一/國分功一郎『哲学の自然』太田出版

中沢新一様、國分功一郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 中国で、南宋禅を開いた慧能という人がいます。もともと、薪を背負ったり釜の湯を沸かしたりする雑役層でした。慧能は出世して、弘仁という先生のもとに弟子入りするのですが、身分が低いので、先生の講義を外で聞くことしか許されません。
 弘仁先生は、年をとって後継者を決めるときに、弟子に対して、「自分が会得した境地をうまく詩に表せた人を後継者にしよう」、と言いました。
 後継者として有望だったのは、大秀才の神秀でした。彼は、「身体は菩提樹のように、心は明鏡台のように落ち着かせて、常々心の誇りを払うように仏の道に勤める」というような意味の詩を書きます。
 これに対して慧能は、「菩提樹にはもともと樹などなく、明鏡にも台などない。仏の道は本来一物なので、埃などたまりようがない」というような意味の詩を書きます。
 この慧能の詩を読んだ弘仁先生は、慧能に対して、「お前はここにいては危ないから、いますぐ荷物をまとめてこの場から逃げろ」と言ったそうです。
 雑役層が、ほかの誰よりも一番さとりを得ていた、ということになったら、秀才たちはその脱液相を殺そうとするでしょう。そうなると禅宗は、組織として機能しなくなるだろう、というわけですね。
 卑しい仕事をしている人の方が、悟りの境地にいるというのは、東洋の仏教に限らず、いろいろな地域に脈々と流れている一つの伝統であるでしょう。