■ 人生の悩みは、哲学では解けない

仲正昌樹『〈ネ申〉の民主主義――ネット世界の「集合痴」について』明月堂書店

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「神」という字は、「示す」に「申す」を組み合わせていて、たしかに興味深いですね。
「示」は、「祭壇」という意味。「申」は、「稲妻が伸びる様子」。
祭壇に轟きわたるものが、「神」です。
 インターネット上にも、祭壇があります。ネット上の祭壇で轟くものは、不特定多数の人々の、ある種の声(書き込み)です。「民の声は、神の声」という、中世ヨーロッパ以降に使われるようになった標語がありますが、ネット上の声は、そのような神聖な、反論できない力をもつ場合があります。
 ネット上の言説空間で、ルソーのいう一般意志のようなものが形成されるとすれば、(それはたんなる全体知であったり集合痴であったりする場合ももちろんありますが)その意志こそが、民主主義の基礎になるかもしれませんね。その場合には、知識人の権威的な作用をもった言説など、無用になるでしょう。
 ただ問題は、一般意志がどのように生成するのか。その生成プロセスに、民主主義の「手続き的正義」はあるのか、でしょう。
 これとは別に、本書の最後の方で、「哲学」に関心をもつひとには、「悩んでいる」人が多いということが述べられています。悩みといっても、高尚なものではなく、彼女がいない、友達がいない、金がない、将来が不安、といった悩みです。そうした悩みに対して、それは君、〇〇という哲学者も悩んでいた「コレコレ問題」だよ、などと言って、あたかも哲学が解決できるかのように示唆されることがあります。私たちの社会で「哲学」と呼ばれているものは、往々にして、宗教書とか、スピリチュアル系の本とか、メンタル・トレーニングの本などと、あまり変わらない。
 けれども、人生論的な悩みの多くに対しては、哲学では解けないことを、明確にしないといけない。例えば、恋人ができない人に対して、「君はすでに哲学的な問題を悩んでいたんだ」、などと煽ってはいけないわけです。
他方で、哲学者は、哲学をかじったことのある青二才を愛する、というのも真実です。哲学上の秘儀へと誘惑するための言説もまた、哲学とみなされます。