■ケイパビリティの二重基準

神島裕子『マーサ・ヌスバウム』中公選書

神島裕子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 マーサ・ヌスバウムは大学二年生のときに、ギリシア悲劇専門の劇団から仕事を依頼され、その仕事に専念するために大学を中退しました。将来は俳優になりたいと思ったのです。ところがしだいに、自分がしたいことは「劇について研究することだ」と気づいて、ニューヨーク大学編入します。
 編入後、大学の授業でアラン・ヌスバウムと知り合い、結婚します。アランがユダヤ人であったこともあって、マーサ・ヌスバウムは、ユダヤ教に改宗しました。ヌスバウムの思想の背景には、新アリストテレス主義とユダヤ教との結びつきがあるのですね。とても興味深い事実です。
 例えば、「早死にしないこと=長生きすること」「適切な住まいをもつこと」「教育を受けること」「安全であること」といった価値は、「ヒューマニズム」の理念に基づくものです。リベラルな観点から、公共政策の価値目標として掲げられます。しかしこれらの価値は、アリストテレスのいう機能(エルゴン)に関する一定の解釈から導くこともでき、あるいはまた、ケイパビリティの概念によって解釈することもできます。ヌスバウムの政治思想の面白さは、リベラルな理念と、アリストテレス的な理念、あるいはケイパビリティのアプローチによって、重なり合う思想を紡ぎ出すところにあるのでしょう。
 一つ、これは難問と思われるのですが、1972年のウィスコンシン州ヨーダー事件に対する、最高裁判決をどう理解するか、という問題があります。あるアーミッシュの親が、自分の子どもに対して、通常の義務教育(七歳から十六歳までの期間)の最後の二年間の就学を、拒否します。これが憲法の理念に反するかどうか、という問題ですね。
 「自律」を価値とするリベラリズムからすれば、義務教育の最後の二年間を拒否することは、認められないようにみえます。ところが「ケイパビリティ」の観点からすれば、14歳までの義務教育を受ければ、「自律」のための「潜在能力」を獲得した、と解釈することができます。14歳では、自律することはできませんし、自律の条件を獲得したということもできません。それでも、「自律の可能性を手に入れた」と解釈することはできます。こうした解釈から義務教育の閾値を判断することは、憲法が規定する人間像に反しない、と理解することもできます。ケイパビリティは、自律のための能力であり、自律することを強いる理念ではありません。ケイパビリティの理念は、その気になれば自律できるという時点で、人間を社会的に承認することになります。
 しかしこのように発想すると、ケイパビリティの閾値というのは、かなり低い水準であることが分かりますね。アーミッシュ以外の人にとっても、義務教育は14歳まで受ければ、それでかまわない、ということになるかもしません。ケイパビリティ・アプローチは、リベラリズムの「自律」理念とは異なる基準を提供しています。
 他方で、私たちは、高校の授業料を無料化する政策を検討しています。高校を卒業することは、格差社会問題を克服するための、一つの政策であるとみなされます。できるだけ多くの人が高校を卒業することができれば、学歴の格差は縮まるでしょう。こうした格差克服のための政策は、ケイパビリティの閾値を、かなり高く設定しています。高い理想のケイパビリティ(「(潜在力)ポテンシャリティ」と私が呼ぶもの)を掲げるものであります。
 この高い理想(ポテンシャリティ)と、「自律可能性のための最低限の潜在能力」を、私たちは区別して考える必要があるでしょう。自律の可能性や自律のための条件を超えて、さらに高度の潜在能力を発揮するための支援は、別の仕方で正当化されなければなりません。基本的な義務教育の閾値と、政府が無償で提供しうる高等教育の閾値。ケイパビリティ論は、これら二つの規準を整合的に正当化するように、理論化されなければならないようにみえます。