■リベラリズムと反リベラリズムの共存状態

仲正昌樹編『「法」における「主体」の問題』御茶の水書房

野崎亜紀子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 現代社会の規範原理(とくに法)は、「リベラルな主体」が「自由な社会をつくる」という想定のもとで正当化されることが多いですね。しかし、そもそも「リベラルな主体」が自由な社会をつくるという場合に、いったい、だれがどのようにして「リベラルな主体」をつくるのか、という問題が生じます。その形成過程は、実は、リベラリズムが排除している原理によって成り立つのではないか。
 例えば、リベラルな社会のもとで、子育てや介護をだれが引き受けるのか。それらを引き受ける主体の社会的脆弱性を、どのように考えるのか。こうした問題を、リベラルな社会は、これまで公的な問題とするのではなく、私的なオイコスの領域に任せ、正義の問題から排除してきた、という事情があります。
 これらの問題に対して、他者の脆弱性を承認しつつ、リベラルに対応しようという態度もありえますが、リベラルになればなるほど、実効的な対応ができなくなるかもしれません。制度的な有効性と、社会実践的(社会運動的)な有効性のあいだには、大きな溝があるかもしれません。この二つの関係は、それ自体がイデオロギー対立の種になります。
 制度的にはリベラリズムが有効でも、実践的には反リベラリズムが有効である場合があるわけです。この二つのイデオロギーは、対立しながらも、カップリングしている可能性があります。人生の指針は反リベラリズム、でも、制度としてはリベラリズムを支持する、というねじれた哲学を、どのように説明すべきなのか。それが問われているのではないかと思いました。