■制度に代わって権能強化がリスクを吸収する

宮島喬、舩橋晴俊、友枝敏雄、遠藤薫編『グローバリゼーションと社会学ミネルヴァ書房

宮島喬様、舩橋晴俊様、友枝敏雄様、遠藤薫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「第一近代/第二近代」というベックの分類があります。「第一近代」においては、個人の自由が増大する一方、そのリスクを「家族」「職業」「地域社会」「国民国家」などが、セイフティネットとして引き受けてきたといえます。ところが「第二近代」になると、福祉国家は危機に陥り、国民国家は脆弱なものとなります。また地域社会や家族や職業も、セイフティネットとしての役割を果たさないようになります。
 そのような「第二近代」においては、近代の再帰性が高まる、というわけですが、どういうことでしょうか。
個人の自由、政治的自由(リベラルな権利)、市場の自由といった自由は、リスクを増大させていきます。ですので、これらの自由は、安定した活動として、制度化されなければなりません。しかし、そのリスクを吸収してきた制度や組織も、同時にリスクを増大させていくのだとすれば、自由に対するセイフティネットは、どのように築くべきなのかが、あらためて問題になるわけです。
 この「リスク社会」の進展と並行して、ラッシュが指摘しているのは、「後期近代(第二近代といってもいいでしょう)」において、それまでの「近代化=主体の服従化subjugation」の論理に代えて、「主体の権能強化empowerment」が生じている、という事態です。この権能強化は、ラディカルで多元的な民主主義の政治を可能にする要因です。
 こうした二つの観点から、「第二近代」の特徴を考えてみると、「自由vsセイフティネット(規制や制約を含んだ連帯の関係)」という対立関係が、大きな変容を遂げる一方で、個人をエンパワメントする作用が生まれてきた、ということですね。この複合体を理論化すると、セイフティネットとエンパワメントが機能的に等価な関係に置かれる、ということになるでしょうか。第一近代における自由は、抑圧からの自由であり、そのリスクは、抑圧的ではない不自由としての諸制度によって支えられています。また、抑圧からの自由は、主体化による超越的な権威への服従化と同時に、与えられています。
 これに対して第二近代における自由は、権能強化としての自由であり、それは制度に代わって、個人の行為がもつリスクを吸収します。そのような自由を、「潜在能力の強化」と読み替えることもできるでしょう。セイフティネットのリスク化は、個人行為におけるリスク吸収と同時に進行します。ただしギデンズであれば、それは「信頼」のメカニズムが働いているからだ、と言うでしょう。潜在能力の強化は、自己を他者に投げ出す関係性の強化(信頼の強化)とともに、与えられているのかもしれません。