■不確実性と危険の区別について

盛山和夫社会学の方法的立場 客観性とは何か』東京大学出版会

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 フランク・ナイトは、確率によって把握することのできる「不確実性」と、確率によって把握することのできない「危険(リスク)」を区別しました。類似の区別は、ルーマンにもみられます。
 しかし本書が指摘するように、そもそも経済事象については、信頼しうる確率分布など、存在しません。経済事象は、気象と違って、人々の実践によって左右されるので、「個別事情の独立性」が確保されていません。ですので、確率によって把握できる不確実性と、確率が分からない危険の区別は、あまり本質的ではないのかもしれません。
 ただ私が思うに、「リスク」というものが誰かの行動によって負担され、社会全体が均衡化(安定する方向)へ向かうような場合には、そのリスクは、社会の人々によって反省的な意味の相互作用によって捉えられる必要はありません。誰かが負担するインセンティヴをもっている場合は、それはその人によって機能的に認知されれば十分であり、人々のあいだで相互主観的に意味を共有する必要はありません。
 しかし「リスク」というものが、人びとに共有されていないとうまく対処できない場合、たとえば災害などの場合には、反省的な仕方で意味世界が構成されなければなりません。
 つまり、反省的な仕方で共有された意味世界が構成される必要があるのかどうかによって、「不確実性」と「危険」を区別する意義が異なるのではないか、と思いました。
 では「リスク」というものが、誰かの行動によって負担され、しかもその負担によって、社会全体が不均衡化(不安定化)する場合は、どうでしょう。この問題を考えると、リスクは結局のところ、「確率をともなう不確実性」に還元できるかもしれません。
 不均衡化や不安定化に対応するためには、人びとが協力して社会を防衛しなければならない。そういう「意味世界」のもとでは「リスク」は共有された意味世界の現実であり、そのような世界の一部として、対処可能なものでなければなりません。
 問題はしかし、「リスク」というものが、誰かの行動によって負担され、社会全体が均衡化(安定する方向)へ向かうような場合であり、そのようなケースでは、人びとは意味世界を共有していないにもかかわらず、社会全体が均衡化するということです。このような社会的現実は、「相互主観的に共有された意味世界」によっては、把握できないのではないか、と疑問に思いました。