■新自由主義の定義をめぐって


若森章孝『新自由主義・国家・フレキシキュリティの最前線』晃洋書房

若森章孝様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 この20年間のグローバル資本主義に関する重要な論点が、一通り探求されています。参照されている文献がとても多く、勉強になりました。とくにヨーロッパ諸国におけるフレキシュリティの動向に関する研究は、学ぶところが多いです。
 ところで「新自由主義」の定義について、私の定義は「広い」と言われることがあるのですが、本書の定義もまた、私の定義とほぼ重なるものであり、理解を共有できたと感じています。
 「国家介入の再定義と新自由主義が一体のものであることを想起するならば、ケインズ主義的福祉国家に取って代わる国家は、何よりもまず、市場に有効な競争を作りだすために積極的に介入する新自由主義市場国家、あるいは新自由主義的法的介入主義国家である、と規定すべきであろう。」(84頁)
 こうした視点から、本書はフーコーを援用して、「新自由主義国家による福祉国家の包摂と呼びうる事態が展開される」(85頁)としています。
 ただし定義について、次の二つの観点が、緊張関係にあるようです。
 例えば38頁では、「新自由主義によれば、福祉国家は、労働市場の柔軟化や国際競争力の向上を妨げている最大の障害物である」とされています。これに対して83頁以降では、「新自由主義国家」が福祉国家を再編して包摂する様子が描かれています。この二つの理解のあいだに、新自由主義の定義の矛盾がないでしょうか。
 焦点となる実証的な問題は、グローバル市場において勝つことを目指す「競争的国家」は、例えば、解雇規制をどこまで緩和するのか、最低賃金法をどこまで否定するのか、失業保険をどこまで削るのか、という点でしょう。これらの労働規制をむしろ維持した方が、国家はグローバル市場において、国民の人的資本形成を促進することになり、「競争的国家」として成功するかもしれません。フーコー的な意味での企業経営的発想が全般化した新自由主義社会における国家は、やはり、労働規制を維持ないし強化して、国際的な競争力の強化を企てるかもしれません。そうなると社会的投資国家こそが、新自由主義的国家の本質だということになります。
 本書の第三章の定義では、それは「新自由主義的ではない」となりますが、第五章の定義では、それは「新自由主義的である」ということになる可能性があります。私としては、第五章の定義のほうが、現代の新自由主義の理解にとって本質的であると思います。
 また第6章を読んでわかることは、新自由主義的国家は、社会的投資国家として不十分な形態であり、私たちはむしろもっと貪欲に、家族や教育を含めて、社会的投資に自覚的にならなければならない、ということです。ただここが理論的に重要な点で、社会的投資の意味をどのように理解するのか、それを新自由主義的な競争国家とは区別して、どのような新しい国家のビジョンへと練り上げていくのか。この問題が問われているのだと思います。