■コーエンのロールズ批判

理性の両義性 (岩波講座 政治哲学 第5巻)

理性の両義性 (岩波講座 政治哲学 第5巻)

斎藤純一編『政治哲学5 理性の両義性』岩波書店

斎藤純一様、井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 政治哲学にしても、経済思想にしても、このように編著で企画する場合には、大思想家たちの紹介という構成になるのは同じですね。
 コーエンのロールズ批判について考えてみます。才能のある人たち、例えば外科医は、どれだけの所得(報酬)を得ることが望ましいのでしょうか。才能のある人たちは、もし社会全体の富が増大するのであれば、最も不遇な人たちのために全人生を捧げる必要はなく、経済的な自己利益を追求してもよいのでしょうか。
 「よい」と考える場合の論理は次のようなものです。外科医は、市場経済を通じて、自身の医療活動によって、利益を得ます。その場合、市場経済の作用は、外科医の活動を含めて、社会全体の人々の活動を調整し、その意図せざる結果として、富の全体が増大するように導くでしょう。そのような自生的秩序が有効に働く場合には、外科医は、自身の活動が社会全体の「協働」に参加していると認識する必要はありません。ロールズが想定するように、この社会が「協働社会」であるとは理解する必要はありません。
 では、才能に恵まれた外科医たちが、市場経済で勝負するのではなく、自身の活動を、「協働社会」の一部であると認識する場合は、どうでしょうか。外科医はおそらく、自分の労苦に見合った報酬を受け取ることで、満足するでしょう。そのような「協働」意識に基づく「平等主義のエートス」を、外科医たちに道徳的かつ法的に要請する立場が、コーエンの平等主義思想です。
 こうした平等主義の問題点は、理論的には、「協働のための平等」か、それとも「市場における自己利益の追求」か、という二分法で発想するところにあるかもしれません。「協働」にせよ、「市場」にせよ、人々の活動の結果として、社会全体の富(技術革新も含む)が増大する場合があります。そのような富の増大を導く仕方で、市場と平等のバランスを考える、あるいは非協働と協働のバランスを考える、という中道的な方向性があります。
 ロールズのいう「協働」とは、そのようなバランスを取る広い意味での「協働」であり、コーエンのように厳密に解釈した狭義のものではないでしょう。
 ではなぜ「中道的な協働」が求められるのかと言えば、それはそのような国家の方が、進化論的にみて、社会をいっそう成長させる、あるいは人々の諸関係をいっそう豊かなものにするからでしょう。ただそのような見通しがいつでも立つわけではありません。思想闘争が重要になるゆえんです。