■公正な市場価格は神の力を前提とする

<世界史>の哲学 イスラーム篇

<世界史>の哲学 イスラーム篇

大澤真幸『〈世界史〉の哲学 イスラーム篇』講談社

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 大変スリリングに読みました。イスラム教がそもそも資本主義と相性が合わないという通念は、確かに誤りのようですね。
 オスマン帝国(14C-20C)が、その外部にいる異教徒たち(クリスチャン)の子供を年間3,000人くらい拉致して、自前の教育を施して帝国のエリートに仕立て上げる、というのは独創的な統治技術でした。血族や部族による支配を徹底的に排除して、実力主義によって統治機構を作ると同時に、異教徒を包摂し、領土を拡張する力を備えていことができます。
 この問題とは別に、本書で論じられる「交換と贈与の問題」について、以下に考えてみます。
 単純な商品交換というものは、社会のなかで結局のところ、慣習的な関係を形成するようになりますね。慣習や信頼の関係が生まれれば、それは互いに相手を拘束することになるでしょう。すぐに取引関係を止めることができなくなります。そこには、商慣行に基づく相互の「贈与」関係が生まれている、とみることができます。このような慣行の中に埋め込まれた交換経済は、いわゆる市場価格というものを形成しません。相手によって価格が変わるような、人格的な取引になるでしょう。
 しかしこれでは、市場経済は発達しません。取引コストが膨大で、だれから一番安く買うことができるのか、そのような情報が不透明な状況です。
 ところが、商品の交換が神殿で行われる場合はどうでしょうか。そこでは、交換される商品は、すべて神に属するものだ、とみなされます。すると、商品を交換する人々は、交換を通じて互いに拘束し合うのではなく、だれにでも公正な市場価格で売るようになるでしょう。
その論理は次のようなものです。
 人々は、神に属する商品を売り買いする際に、神に対して「負い目」を負います。しかし人々は、互いに「負い目」を負うわけではありません。等価なものを売れば、相手に対する負い目は解消します。互いに負い目を負っているわけではないので、市場価格で売り買いをすることができるわけですね。
 神に対する負い目とは別に、交換相手に対する負い目というものは、「慣行や信頼関係に埋め込まれた経済」において生じるものです。「埋め込まれた経済」は、第三者に対しても公正な価格、というものを形成しません。
 これに対して神に対する負い目は、「神殿で神に属するものを売る経済」において生じます。神殿における交換経済は、神を信じる他の第三者に対しても公正な価格を形成します。神という超越的な他者(第三者)が媒介されることによって、公正な市場価格が形成されるというわけですね。しかもそこでは、神に対する崇拝と、神に属するものを売るという瀆神(負い目)の両義性がみられます。
 「交換」と「贈与」は、単純に区別されるカテゴリーではなく、二者間の交換的贈与と、超越的な第三者を想定した交換的贈与という、二つのパタンがある。そして後者のパタンから、神の要素がしだいに消え去り、第三者としての貨幣に取って代わられる。それが単純交換を可能にするとしても、私たちは貨幣という超越的第三者に対して贈与の関係を築いていることになりますね。
 ただ、ポランニーのいうような「埋め込まれた経済」の理想は、キリスト教社会主義のように、第三者としての神を想定した上で、その神を中心にして社会に埋め込まれるような人倫経済を志向しているのでしょう。そこでは第三者というのは、第二者を超えた垂直的な超越者ではなく、垂直性と水平性、個別性と普遍性を備えたものになり得るのでしょう。