■熟議民主主義は実践知の限界に直面する

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―


山崎望・山本圭編『ポスト代表制の政治学』ナカニシヤ出版

山田陽様、ご恵存賜りありがとうございました。

 福祉国家が成功すると、労働組合や職能集団などの中間集団が衰え、政治的な機能を失うようになります。すると同時に、人々の生活は私的に個人化され、「生活世界の意味」そのものが、政治的公共性の基盤になりにくい状況が生まれるでしょう。
 これを補うために、ミニ・パブリックスを構築していく実践が、いま求められています。匿名で、さまざまな生活背景をもった人たちが無作為に選ばれて集まると、その議論の空間では、それぞれの生活の事情で通用しているだろう政治的言説が、通用しないということも起きます。すると人々は、自分の意見をもっと公共的に通用するような仕方で述べなおすことを求められます。自分の意見を普遍化することが求められているのです。
 このようにして鍛えられた人々の公共的見解を集約して、今度はそれを代表制(つまり議会)によって、議員がさらに意見を練り上げていく。このようにして、「熟議民主主義」のシステムがうまく構成されるわけですね。
 しかしその結果として採用された政策を、こんどは実行に移す際、重要な問題が残ります。
 政府と民間の協働をすすめる「新公共管理(NPM)」は、政策の形成と運営を、行政側と民間側の「協働」によって導こうとするものです。この管理方法を取り入れると、一般の市民がそこに参加するのは難しいです。しかしそこには別の種類の公共性があります。ただそこでは、企業法務に似た仕事が、政治に課されることになり、結果として熟議の意図は、形骸化されてしまうわけですね。企業法務においては、あらかじめデザインされた意図が実現するのではなく、試行錯誤のなかからルールが生まれてくる。それを事前に明確な仕方で方向付けことはできません。
 この辺、実例があると理解が深まります。例えば、市町村の体育館の運営を、どのようにして民間と行政の連携で進めていくのか。それは試行錯誤の過程で、行政の役割と民間の役割をその都度、調整していく必要があり、実践的な手探りが必要ですよね。
そのような経験的実践知をもたずに、私たちは市民として熟議を重ねても、最適な運営方法を知るわけではないでしょう。これは熟議民主主義の限界です。ただこの限界があるとしても、熟議しなくてよいというわけではないでしょう。
おそらく問題は、政治における「実践知」の位置づけでしょう。この問題を「熟議」論者たちは真剣に受け止めなければならない、と。