■キリスト教は信条倫理なのか
- 作者: 橋爪大三郎
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/03/17
- メディア: 新書
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橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
ドイツのルター派は、ナチスに協力的だった。だから後で深刻に反省することになった、というのは教訓的ですね。
キリスト教(一神教)の教えでは、神が命じたとおりに人間関係を構築しなければならない。それはどういうことかというと、人はみな、地上の権威に服従しなければならない。というのも権威はすべて、神によって立てられたものとみなされるからです。権威に逆らうと、神の裁きを受ける。だから税金や関税を納めて、負債を返却しなければならない・・・。
この場合の「地上の権威」とは、例えばローマ教皇であり、あるいはヒトラー政権であったりします。ヒトラー政権であっても、キリスト教は、「命令を拒否してもよいが反抗してはならない」と教えるのですね。
「敵が飢えているなら食べさせなさい。渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、燃える石炭を彼の頭の上に積み上げることになるからである」(箴言25章より)。
つまり「地上の権威」が敵であるとして、その敵に対して善を施すと、悪を打ち負かすことができる。このような思考が、キリスト教の基本的なロジックなのですね。自分自身で報復しないで、裁きは神に任せよ、と。
これはウェーバー用語法では、信条倫理ということになるでしょうか。
ただ正確に言えば、たんなる信条倫理ではなく、ある命法に従って、結果として「燃える石炭を、敵の頭の上に積み上げる」ことを狙っているわけですから、そのような効果が薄い場合には、キリスト教も地上の権威に対してどのように従うかについて、戦略的な思考を働かせることになるのでしょう。