■キリスト教は信条倫理なのか


教養としての聖書 (光文社新書)

教養としての聖書 (光文社新書)

橋爪大三郎『教養としての聖書』光文社新書

橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 ドイツのルター派は、ナチスに協力的だった。だから後で深刻に反省することになった、というのは教訓的ですね。
 キリスト教一神教)の教えでは、神が命じたとおりに人間関係を構築しなければならない。それはどういうことかというと、人はみな、地上の権威に服従しなければならない。というのも権威はすべて、神によって立てられたものとみなされるからです。権威に逆らうと、神の裁きを受ける。だから税金や関税を納めて、負債を返却しなければならない・・・。
 この場合の「地上の権威」とは、例えばローマ教皇であり、あるいはヒトラー政権であったりします。ヒトラー政権であっても、キリスト教は、「命令を拒否してもよいが反抗してはならない」と教えるのですね。
 「敵が飢えているなら食べさせなさい。渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、燃える石炭を彼の頭の上に積み上げることになるからである」(箴言25章より)。
 つまり「地上の権威」が敵であるとして、その敵に対して善を施すと、悪を打ち負かすことができる。このような思考が、キリスト教の基本的なロジックなのですね。自分自身で報復しないで、裁きは神に任せよ、と。
 これはウェーバー用語法では、信条倫理ということになるでしょうか。
 ただ正確に言えば、たんなる信条倫理ではなく、ある命法に従って、結果として「燃える石炭を、敵の頭の上に積み上げる」ことを狙っているわけですから、そのような効果が薄い場合には、キリスト教も地上の権威に対してどのように従うかについて、戦略的な思考を働かせることになるのでしょう。