■仁愛に基づく経済社会の理想とは

幸福と仁愛: 生の自己実現と他者の地平

幸福と仁愛: 生の自己実現と他者の地平

ローベルト・シュペーマン『幸福と仁愛』宮本久雄/山脇直司訳、東京大学出版会

山脇直司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 仁愛とは、自己の「気遣い」を超えて、他者のうちに究極の目的を発見し、それが自己にとって現実的なものになる、ということです(89-90)。
 打算的な人間は、感謝できない。これに対して仁愛を理解した人間は、感謝することができる。しかもこの仁愛によって、私たちは世界全体を認識することができる。仁愛は、世界を新たな光の下に、顕わにすることができます。
 ただ「世界全体を認識する」といっても、私たちは、仁愛の観点からのみ世界を認識しているのではなくて、自分自身の観点からも世界を認識している。仁愛というのは、自分が体験していることを、「真の体験」に引き上げるために、人々の間に「愛の秩序」を創設する運動を含んだものです(120)。
 この点で、人間を「ピュシス」(自然的存在)として捉えることは、適切でしょう。
 ただ問題は、この先です。
 私たちが自身の身近な関心を超えて、仁愛の手を差し伸べるべき他者とは、どんな存在なのでしょうか。その他者は、人格として私たちと相同なのでしょうか。あるいはその他者は、人権を持ったものとして、公平に遇するべき存在なのでしょうか。
 シュペーマンは、他者が「生物学的種的連帯感」に基づく存在であると考え、遺伝子操作を施したような人工的存在は、この連帯感から外れるとみます。これは、政治的な人格の次元ではなく、生物学的な次元に、問題を絞り込んでいるということでしょうか。
 政治思想の次元に関心を寄せると、「仁愛による徳治」に対比される思想は、リベラリズムになるでしょう。
 また仁愛の可能性は、経済思想の次元にもあります。世界平和に向けての思想資源、あるいは福祉国家のウェルビイング政策を正当化する理念としても、存立します。その場合の仁愛は、「ピュシス論」からどのような方向に向かうべきなのか。この本からは読み取れませんが、この問いは重要であり、私も引き受けたいと思います。