■後ろからつかんでくる思想

戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで

戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで

大井赤亥/大園誠/神子島健/和田悠編『戦後思想の再審判』法律文化社

執筆者の皆さま、そして編集者の上田哲平さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「人間の思想というのは大変弱いものでね、思想で一つにくくったらあぶないと思うんですよ。抽象的な理論とか綱領でくくったりしたらいけないのでね。人間はうしろからつかまれることが多いんですよ。思想というのは前に向いていてね、自分が見えるからだの前半部しかみえないけれど、人間大きな変わり方をする時は、うしろから掴まれたということが多いわけですよね、神の手か自分の無意識かも知れないが。だから、自分のよくわからないところで試みをしていってね、それが思想の起動力となる。思想と不思想の間の交流を断ってはいけない、という感じですね。それによって人間ははじめて状況に適応していける、と思うわけですよ。」『鶴見俊輔著作集第五巻、時論・エッセイ』より。
 思想が「前を向いている」というのは、近代という時代がそうさせたようにも思います。近代を相対化しようとすると、思想もまた、後ろを向くことになる。フーコーのような思想家が近代を相対化できたのは、その思考方法が、後ろ向きだったからではないでしょうか。
 フーコーを読んでも、私たちがこの社会やこの状況に、どのように適応していったらよいのかという答えは見つからない。けれどもフーコーを通して、私たちは自分の後ろがみえるようになります。私たちは、得体のしれないモノに掴まれていることを、後ろ向きの思想を通じて、理解するようになります。
 ただ、前が見えないときに、そして思想が後ろ向きの時には、思想と不思想のあいだの交流は、まったく正反対の関係をもたなければならないのではないでしょうか。そのようなことを考えてみました。